老前整理

 住み慣れた奈良市あやめ池の町中に、風光明媚な池の端、駅から徒歩3分という触れ込みで、4階建てマンション一棟をこの春の竣工を目指して近鉄不動産が建てることになったのを契機に、私たち家族3人(私と妻と私の母)が棲むには広すぎるようになった庭がある家を手放して、この一室に引越することに決めたのは一年前でした。しかしそれは同時に持っている荷物の殆ど全部を、マンションの一室には持って行ける筈もないのですから、私たちは「捨てること」を決意しなければならなかったのです。

 先ず始めに整理を始めたのは私の本でした。学生時代から癖のように書店で本を買っては通勤通学電車の中で読み続けてきたもので、本箱も何箱にもなり、ダンボール箱に詰めたものまであって、将来再び目を通すことがあるかどうかの観点で、残すものと捨てるものとに分けました。堺市美原の職場の私の部屋には入り口側を除いて三方向総てを書棚にしています。仕事の書類が優先的に保管されていますが、私の机の後ろの南側の窓の一部を塞いで作った書棚の中に残したい私の愛蔵書を保管することにしました。

 家の中に長年保管されていた家具類、書画骨董、アルバム類や、引き出しに詰め込まれた日用品や印刷物、それに長年使ってきた食器類、衣類、寝具類などの整理・処分の作業の大詰めは、やはり引越が迫ってきた今年になってのことでございました。毎週休みの日の度に、妻と二人で、時には妹夫婦も手伝ってくれましたが、ゴミとして捨てるものをダンボール箱に詰め、駐車場の中に貯めて行きました。駐車場が捨てるゴミで一杯になったら、業者にトラックでゴミの引取に来てもらいました。

 残すものを選ぶと言っても私たちの場合、その90%は捨てなければならなかったのです。部屋の片隅にしまわれていた家族の思い出の品や、子供の頃に親が買ってくれた品などが出てくると、思い出が蘇り、日頃目にすることも無く、気にも止めなかったのに、捨てるとなると本当に辛くて、涙が出るほど哀しくなるのでした。2トントラックで結局9台ゴミの引取に来て貰うことになりまいた。ものを捨てるというのは、ものを大切にしていない、ものへの「愛」が不足しているようにも見えますが、そうではありません。

 この世に「自分のもの」と言えるものなど本来無いのですから、仏の愛の心と言われる四無量心(慈悲喜捨四徳)にも、最後の捨徳が一番深い愛とまで説かれています。執着から心を解き放ち、不要なものを思い切って「捨てる」というのも、実は深い「愛」の心なのです。特に私の場合、時期としても今が最善の時で、これ以上後になったら私たち夫婦の体力では自分の所有物を整理することもできなくなって、他人様に迷惑をかけることになるのです。昨今「老前整理」の必要が叫ばれるのも、このことを言っています。