善き願いは必ず叶えられる (その3)

私は「願いは必ず叶えられる」と言いながら、一方ではどんな願いでも叶えられるものではないとも申しました。例えば今仕事が無く、就職先を探す人がおられるとして、彼が様々な能力を持ちながら、社会の為にそれを使わないのは社会全体として善いことではありませんから、「神様、社会に貢献できますよう、どうか自分に相応しい仕事に巡り会わせて下さい」と祈り続けると、神様はその祈りを必ず聞きとどけて下さると断言できるのです。しかし例えば3Kと言われる辛い仕事には就きたくないからと、「神様、どうか一日中座ったまま仕事ができて、残業もなく、週休二日もとれる、そんな楽な会社に就職させて下さい」と祈っても、そのような願いは自分だけの願いでありますから、神様はそのような我が儘を聞きとどけられる筈がありません。

平成16年(2004年)10月、私は霊園美原ロイヤルの代表として、十数ヶ月の期間を費やした「南阪奈吉祥霊園」の開発の断念を決断しました。すると、申請業務を担当した設計事務所さんも、周辺地主と折衝した家屋調査士さんも、霊園事業のパートナーである石材店の丸長さんも、口を揃えて「どうして? もう少し頑張るべきでは?」と不思議そうにおっしゃいます。ここで頓挫させると、これまで投資したお金は総て損金として処理しなければなりません。しかしこのまま突き進みましても、最後の最後に霊園にはできないとなると、損失は今の何倍もの額に上って霊園の経営そのものを危なくします。私は無念さに唇を噛みしめながら、この断念は正しい決断なのだと自分に言い聞かせたのです。

しかし問題はそれを地主さんにどう伝えるかです。土地取引の障害だった進入路は付く目処が立ちましたので、そろそろ土地代金が入って来るものと地主さんは期待しておられることでしょう。それを「買わないことに決めました」などと一方的に言おうものなら、とっくみあいの喧嘩になるか、下手したら裁判沙汰になるかもしれません。
私はこんなとき、日頃から「生長の家」の「生命の実相」の教えによって、人間の本当の姿(実相と言う)は神の子であると学んでいますから、そのような相手と会う前に、神棚などの前で、いつも次のように念じながら瞑想することにしています。

 「この現象世界で私と対立するように見える○○さん、しかしそれは迷いの心で見誤った仮想の世界。本当の姿ではありません。あなたの本当の姿は神の子です。あなたと私は一体の神の子です。○○さん、あなたは私を許し、私はあなたに感謝いたします。」
それは16年の暮れに近い、とても寒い日でした。私は丸長のK会長や家屋調査士さんと共に地主さんの家を訪れ、新霊園開発の断念をお伝えしました。不思議なことに地主さんはまったく怒りの表情を見せられず、静かな口調で次のようにおっしゃいました。
「土地が購入できなくて申し訳ないなどと、とんでもありません。美原町が民営霊園の新設を認めない堺市に編入されるなんて誰にも予想できませんでした。野瀬さんが悪いのではありません。それより野瀬さんのお陰で、近日進入路を付けてもらえることになり、境界も確認ができ、面積も実測できました。私たちには長く出来なかったことです。私は野瀬さんを許す許さぬではなく、寧ろ野瀬さんにお礼を言わなければなりません。」

(画像は霊園管理棟内の拝殿。私は平成16年の夏から日曜の早朝に、ここで瞑想の行とご先祖や霊園埋葬者の供養にお経の誦行を始めた。最初は私一人の行だったが、今日では付近の「生長の家」信徒さんが5,6名参加して下さっている。)