宇宙に遍満する知恵を掴む

 先日、お客様と飲食をしているときに、若い女性の店員さんが私の背広に付いた、私の会社、関西メモワール(旧 浪石)の社章である五三の桐紋を見て、どうして秀吉の軍旗のバッジをつけているのか?と尋ねられ、確かに今戦国ブームではありますし、歴女ブームとは言いますけれども、それでも実際にそれを若い女性から指摘されると驚いてしまうものです。聞いてみるとその方はやはり毎週欠かさずNHKの歴史大河ドラマ「江(ごう)」を楽しみに見ておられる戦国歴女さんでした。

戦国時代ファンの多くがテレビや映画の映像にすっかり印象付けられ、羽柴(豊臣)秀吉の天下取りの軍旗は、真ん中に五つの、左右に三つの花びらがある五三の桐紋だったと認識されています。だから浪速の石材店だった浪石(なみせき)も、浪速と言えばイメージされる秀吉の軍旗を社章にしたに過ぎません。だが実際はどうだったのでしょう? 桐紋には別に日本政府が使う五七の桐紋があり、それを天皇から使うことが特別に許された足利義満や太閤秀吉の故事を考えるなら、その亜流の五三の桐紋が仮に豊臣家の軍旗として使われたとしても、皇室とは無縁の信長家臣の時代では考えにくく、寧ろ皇室と親しくなった後に秀吉が亡くなり、距離を置かざるを得なくなった徳川時代の「大阪の陣」だけだったのでは?と推測いたします。しかしここで戦国ファンの夢を壊す議論はしたくありません。

 本能寺の変後、主君信長の敵(かたき)を真っ先に討ったのが羽柴秀吉でした。しかしこれは主人を想い、慕う心が家臣団の中で秀吉が最も抜き出ていたという証にはなりません。学問もなく、家柄も無く、ただ仕事の手腕だけが主人に認められた秀吉ですから、家中では妬まれ、やっかみ者だった自分を買ってくれた主人が急に居なくなれば、真っ先に立場を危うくするのは自分だと気づいた筈です。だから誰よりも早く主人の仇を討って織田家の中の立場を保全しなければならなかった。だから主君の仇討ちというよりも、自分と自分の軍団の生命を守る為だったと言う方が正しいのではないでしょうか。有名な備中高松からの「大返し」は、秀吉軍には文字通り、命懸けの一刻を争う行軍だった筈です。

 そんな秀吉が主君の敵、明智を滅ぼし、織田家家臣団の守旧派の代表格、柴田を滅ぼした頃から、彼の頭脳が、主人信長の魂が乗り移ったかのように、戦国の世をいかに終わらせるか、戦後の国家をいかに統治するか、で満たされたかのように、秀吉は人間を大きくして行きました。国政を預かる者としての自覚を持ち始めたのでしょう。秀吉の天下人への成長ぶりが、主家の親類であり、長き同盟者でもあった徳川家康までをも、ひれ伏させることになったのは歴史の通りです。秀吉が天下取りに成功したのは、意識を「私」から「公」へと移し、「宇宙の意思」を悟り、「宇宙の知恵」を自分の知恵にできたからなのだと私は思うのです。

 生長の家の創始者、谷口雅春先生は次のように説かれています。
智慧というものはわれわれの脳髄の中にだけあるのではない。全宇宙に遍満しているものでありますから、われわれが何か要るというと、欲しいと言う心が天地に充満する智慧に感じて、その天地に満つる智慧が、・・・欲していたところのものを届けさすということになるのです。全体智。宇宙遍満の智慧が働いて、あそこには何、ここには何というふうにわれわれの悟りに従って、必要に応じて要るものだけが顕れるというふうになれるのであります。」(「生命の実相」第21巻119~120頁 日本教文社刊)問題はどのような悟りに従えば、宇宙意思を知り、宇宙の知恵を掴むことができるか、ということですが、これは又別の機会に。