歴史の真実を推理する一つの手立て

墓地の使用者であるお客様に、墓参者で込み合う夏のお盆と年末の直前に、霊園側のサービス情報を提供しようと霊園新聞を発行していますが、その中で私は霊園がある河内にも歴史的にスポットライトを浴びた時代があったことを多くの方に知っていただきたく、南北朝時代の河内の歴史紀行を連載で書かせていただいています。
今回は、湊川に続く、京、叡山、北陸の敗戦によって、次々と後醍醐天皇にお味方する武将たちが失われ、窮地に追い込まれた後醍醐側の勢力を挽回しようと赴任先の東北から数千の兵を引き連れて畿内に遠征し、堺付近で足利軍と乾坤一擲(けんこんいってき のるかそるかの意味)の決戦を挑んだ北畠顕家(あきいえ)が、遂にその21歳の若き命を散らす段を書かせていただくのです。

陸奥を出発した顕家が尾張の国までは連戦連勝で進軍したと言うのに、何故そのまま京には行かずに伊勢に進路を変えたのか、何故北陸の新田軍と連合して足利軍を叩く勝機を逃したのか、は昔からよく言われる歴史の謎なのですが、状況を分析すれば、実はそんなことは謎でも何でもありません。
顕家は尾張にやってくるまで実は兵糧(食糧や飲料水や藁草履などの消耗品)を行く先々で強奪していたのです。東北軍が通った街道沿いには餓死者が出たとも言われる程、すさまじいものでした。これは手段を選ばず劣勢の南朝軍を勝たせたい父、親房一念の命令だったのでしょう。しかしいくら父の命令とは言え、公家仲間が多く住む京の近くでは、まさかそれはできず、先ずは自領にて兵糧の調達を図ったのが、進路変更の理由だったのでしょう。それも顕家の独断だったと私は思います。
しかし親房は伊勢での休憩を許さず、吉野の山中に籠ったまま、遠路はるばる戻ってきた息子を労おうともせず、ただちに大和に進出して敵と決戦するように指示します。恐らくは伊勢の国に多数の城を持つ比較的裕福な北畠家の力を以ってしても、この数千の東北軍を養う余裕はなかった、というのが真実だったのでしょう。

仕方なく顕家は南都(奈良)の街で再び兵糧の強奪をします。この結果大和の人々を敵に回すこととなって、これに続く般若坂の戦いで、顕家にとっては初めての苦い敗戦を招いてしまいます。敗戦の将となった顕家は僅かに残った兵たちを引き連れ、親房の指示に従って暗越奈良街道を河内に向かい、南河内の楠木軍との合流を図りますが、約束の合流場所の枚岡にやって来たのは、楠木軍ではなく、正成の未亡人、久子夫人と、長男の幼い正行(まさつら)のたった二人でした。
軍を引き連れずにやってきた二人の姿を見て、顕家は、今や楠木家は大黒柱を失って、残った総領息子もまだこれほどの少年であれば、いかに親房卿のご命令であろうが、浪速での敵軍との決戦には従軍したくてもできませんと無言で訴える久子夫人の気持ちを悟って、未亡人を一切責めることなく笑って別れを告げ、軍を和泉に進め、足利軍に討ち取られた、ということになっています。

私は当初このエピソードに何の疑問も抱きませんでした。今の時代には歴史研究の資料として詳しい年表が出来ています。あらゆる文献に記載された記事がきちんと時系列に整理されています。その事柄自体は知っていることでも、それぞれの事柄が起こった順番が問題です。その順番を知るだけでも、誰にでも歴史の謎をある程度推理することができるものなのです。
私が注目したのは、枚岡で未亡人と顕家があったその日から、顕家が石津で戦死するまでの期間が60日以上もあった、ということです。そのような長い期間、顕家率いる東北軍はどこでどうして飯を食っていたのでしょう? はっとそのことに気づいた私には、枚岡での出会いの意味がまったく違うものに見えてきました。そのことを知りたい方は、来月の霊園新聞でお読み下さい。けれども考えなければならないのは、700年もの後の時代の人からいかに楠木家に纏わる誤解が解かれても、問題は久子夫人が生きた時代の人々からはやはり楠木家は誤解されたままだった、ということなのです。

 

【枚岡】
顕家と楠木母子が会見したのは暗越奈良街道と東高野街道が交差したこの辺りか?