日本人の和の精神

 お正月に国旗を掲げると、改めて自分の国への感慨に耽るものです。「日本」の国号は、「天皇」の称号とともに 7世紀後半、天武天皇が定められたとなっています。それは大化の改新の偉業を成された兄君、天智天皇の遺言であったとも伝えられ、又天智天皇がそのように意識されたのも元はと言えば、一世代前の「日本」国号や「天皇」称号を発案された聖徳太子への尊敬の念であったのではないでしょうか。この頃は国名をヤマトとも呼んで「大和」と表記しました。大いなる和の国という意味が込められているのでしょう。つまり「和」が日本民族やその国家を象徴するキーワードであります。

 古代我が国は東アジア世界の中で日本と名乗る前は「倭国」と呼ばれていました。「倭人の国」ですね。すると私たちは倭人というのは縄文文化を残した何万年前から日本列島に住んできた人々のことを言うのだと思いがちですが、調べてみますと倭人とは、日本列島に広く住む前は、玄界灘を挟んで朝鮮半島の南半分と北九州や山陰地方に分かれて住んでいた人々を指して言うのだとの説があり、日本列島の先住民のことではないようなのです。しかもその中には中国の長江下流域の呉の国の亡命者も含まれていたと言われています。

 UHF局での再放映でしたが、昨年私は韓国の歴史ドラマ「朱蒙(チュモン)」やその続編である「風の国」にすっかりはまっていました。今の北朝鮮や韓国の人々のルーツである中国東北部での「高句麗(コグリョ)」建国のドラマです。紀元前1世紀、満州に騎馬民族が土着して建国がなされた扶余(プヨ)国の王族の兄弟争いの末、国王の愛妾、柳花(ユファ)夫人の連れ子だった三男の朱蒙が国を飛び出し、卒本(チョルボン)地方の豪族達と結んで、卒本の女君長、召西奴(ソソノ)を大后となし、自ら大王(東明王)となって高句麗国を建てました。そして歴史は繰り返されるように朱蒙の息子達が国を分けての兄弟争いにならんとした時に、争いを避ける為、三男の琉璃(ユリ)に太子の位を譲って大后の連れ子だった長男次男が国を出て行き、南の地即ち現在の中国遼寧省東端から北朝鮮西部にかけて「百済(ペクチエ)」を建国するのです。

 この後、扶余は消滅しましたが、同じ扶余人の高句麗だけが膨張した結果、もうひとつの扶余人の国、百済は更に南の今の韓国西部に押しやられ、その東に新羅(シルラ)が建国されると、半島を三国で分割する、いわゆる「三国時代」が到来します。その時、倭人はもう殆どが日本列島に押し出されたようです。しかも列島には倭人だけではなく、高句麗人も、百済人も、新羅人も一緒に移住しました。半島ではこの三国は血みどろの争いを続けましたが、列島に渡った人々が故国の違いから争った跡はありません。弥生時代から古墳時代にかけて日本列島に住むようになった様々なルーツの人々は、それぞれのルーツの違いを乗り越え、倭国の民として「和の精神」でひとつにまとまれたのは幸いでした。様々な故国が違う人々にとって和解しあうことが互いが生き残れる術だったのかもしれません。

昨年秋以降、上記のことが知りたくて読んだ本は以下の6冊です。①「古代朝鮮と日本文化」金達寿著、②「日本と朝鮮はなぜ一つの国にならなかったのか」武光誠著、③「物語韓国史」金両基著、④⑤「日本人はるかな旅―ⅳ巻 イネ、知られざる1万年の旅、ⅴ巻 そして“日本人”が生まれた」NHK「日本人」プロジェクト編、⑥「日本語の正体」金容雲著