日本人の和の精神 その3

 前回と前々回とで、我が国の歴史には縄文時代と弥生時代との間には大きな断層が見られるということについてお話ししました。弥生時代は日本列島の先住民だった人々が、大陸からの亡命者や、半島から渡来した人々との「混血と文化的融合の時代」だったと考えるのが自然であります。しかし故国が様々に違う人間が互いを理解して融和するのは、口で言う程簡単なことではありません。実際にお互いに殺戮(さつりく)しあったことも多かったでしょう。

 我が国の建国者で初代の天皇だと伝えられる神武天皇が実在の人物かどうか、またその年代が何時のことなのかもはっきりしませんが、あれほど詳しく古事記に記載された有名な東征伝説は、全てが後世に創られた話だと決めつけるより、弥生時代の実際の建国者たちのエピソードを集めたものと考える方が自然でしょう。その中には奈良県の宇陀盆地にいた土着民(縄文人でしょうか?)を神武天皇が従わない者達だと決めつけ、宴会に招いて全員騙し討ちにするというエピソードが記されています。本当に反抗する人々なら、宴会に招かれても来なかったでしょうに。見た目からの偏見があったのかもしれません。

 また古事記には、神武天皇が先住民だけではなく、倭人(弥生人)たちでも従わない種族の首領たちは皆殺しにするエピソードも複数記載されています。また北九州なのか、奈良県巻向地方なのか、その所在が今なお議論される「邪馬台国」の様子が記載された中国の歴史書「三国志」の「魏志」の倭人伝には、往時(3世紀前半)倭人の国は100余国に分かれて争ったと記されていますから、やはり弥生時代は神武天皇の建国の時から古墳が造られる3世紀まで、かなり長い間、血で血を洗う日々が続いたようです。それがある日、それぞれのルーツについては口にしなくなって、元々この列島に住んでいた人間のように纏まってしまうのですね。そこには一体どんなドラマがあったのでしょうか。

 争っている人間同士が、ある日争いを止めて互いに和解するというのは、新たなルール作りをするといった、争いを続けるよりも遙かに大きなエネルギーを要するものです。倭人達は半島から渡来した人とも先住民だった縄文人たちとも交わり、一つの纏まった第二の倭人となりました。縄文人の中で倭人とは交わらなかった人々は東北へ移住し、蝦夷(えみし)と呼ばれました。また一方南方の沖縄地方にも純粋の縄文人が残ったと聞きます。驚くべきことは、混血が終わった弥生人たちは、その後に半島から渡来したルーツを同じくする人々を、渡来人とか帰化人と呼んだことです。ただし往時のそれは、高い文明を担った人々との敬称であって、異国人だと蔑視する意味ではなかったようですが。