第五回 南海堺駅から南海堺東駅まで  中編

第五回 南海堺駅から南海堺東駅まで  中編

 博物館「さかい利晶の杜」から大道筋を渡り、何本目かの筋を南へ南へと進み、次の目的地の南宗寺に向かった。目的地に近づくにつれ、お寺が増え出し、歴史的な趣のある景観を見せてくれる。

途中、少林寺と名乗る寺があり、私たちを驚かせた。しかし少林拳で有名な中国の少林寺とは関係が無いようで、昔から釈迦牟尼佛と共に、稲荷明神や弁財天もお祀りする神仏混交の寺だったようである。

南宗寺に着いたが、境内はこれまで堺で見たどの寺よりも広かった。ここは千利休を初めとして三千家を創業した千家一族のお墓があることで有名な寺である。
千利休、幼名は田中與四郎(よしろう)。堺の豪商の家に生まれ、茶の湯の道を究め、千宋易と号した。信長、秀吉とも交流し、晩年1585年には禁中茶会に参内し、天皇から居士(こじ)号として利休を賜る。6年後、秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居。やがて切腹を命じられた。

 何故芸術を究めた天才と、政治権力の頂点に立つ天下人が仲違いしたのか。歴史研究者は様々な理由を挙げている。私も秀吉に似た人物を知るので思うところを語ろう。
戦後、無一文から寝具業界に身を興し、20年後には上場も夢ではないほど会社を大きくした男がいた。彼にすれば、階級社会の上へ上へと昇る術は、内輪の結束に加え、自らの気配りと努力で、上からのすくい上げを得る事だった。生涯、得意先、素材メーカー、銀行、果ては下請けや従業員に至るまで夫婦共々、涙ぐましいまでの他人への気遣いを見せて来た。

 彼の息子も社会のヒエラルキーを要領よく駆け上がって行く父親の勇姿に憧れ、後継者の道を選択する。息子は国立大学に行き、経営学を学んだ。会社に息子が入って10年もすれば、父親は息子とは価値観が違うことに気付く。学問に王道は無く、ただ真理あるのみ。これを盾に息子は親に意見するようにもなった。又社の内外から息子ににじり寄る輩を見るにつけ、愛情は嫉妬に変わり、自分を否定する敵にも見えるようになった。父親がそんな目で見ているとはつゆ知らず、息子は変わらない尊敬の念を父に抱き続けていたのだが。

相剋するこの親子の関係は、幸いにも秀吉と利休の様には破綻しなかった。事業の方が債務過多で先に破綻したからだ。会社が倒産し、千人もいた社員の総てが去る中、この親子は債権者の手前、協力し合って最後の最後まで債務整理を進めるしかなかった。その過程で和解が進み、お蔭で全く別の事業への転業に成功し、息子は人生をやり直すことになった。
価値観が違うから敵に見えたのは妄想だった。学問や芸術や宗教・哲学の世界は理念の世界であり、現象世界はそれを構成する総ての人々の思念、行為が反映した世界であって、それぞれ価値を計る物差しが違うのは当然なのだ。

この「不朽不滅の理念の世界」と、人間の五官で感じる有限の「現象世界」の違いは大乗仏教でも説かれ、日本では、飛鳥時代の聖徳太子が自宅の斑鳩、岡本宮(現在の法起寺ほうきじ)で、宮廷貴族達を呼び集め、推古女帝の御前で、大乗仏典「勝鬘経」(しょうまんぎょう)の講釈をなされた。しかし太子の講義は余りに難解で、誰も理解することができなかったと言う。恐らくこの講義の趣旨も、相反する二つの世界の話だったのではないかと私は密かに考えている。

(予告していました徳川家の話は、紙面の都合、次回に回すことにいたしました。)