第八回 JR上野芝駅から地下鉄新金岡駅まで 後編

第八回 JR上野芝駅から地下鉄新金岡駅まで 後編

 大仙公園を後にし、北側に道を渡った、仁徳天皇陵の参拝場所に進む。すぐに黄色のシャツを着たボランテイアの男性が側に駆け寄って来た。「御陵について説明しましょうか」と言って下さったが「大変有難いが、生憎先を急ぎまぐので」と丁重にお断りした。
日本の古代は現代人が想像するより遙かに国際的だったかもしれない。暗越奈良街道の紀行にも書いたが、往時は国境もなく、人は半島と自在に往き来していたように見える。ところが半島との往来がばったり途絶え、日本人が半島の韓民族と袂を別つのは、半島諸国の争いに大和朝廷が介在し、思惑が外れ、加勢した百済(ペクチエ)国が唐帝国と新羅国の連合軍に滅ぼされる西暦660年以後のことである。

 古代日本と隣国との関わり合いの話が出たついでに話をもっと大昔に戻そう。ご存じの通り、我が国は日本国と称する前は東アジアの中で倭国(わこく)と呼ばれてきた。そして列島に住む人も自分たちを倭人と呼んだ。しかし元々「倭人」とは、列島の先住民に当たる「縄文人」を指すのではなく、中国大陸の長江河口周辺に発祥した一種族を指すのであって、「倭」と書いてウエイと発音する。倭(ウエイ)族は紀元前、住み慣れた故郷を他の部族に追い出され、東シナ海沿岸を時計回りに流浪したと言う。そして彼らの最終の安住の地が朝鮮半島南岸、あるいは北九州だったと言うのだ。3世紀の朝鮮半島や日本列島を記載した魏誌東夷伝にも、その両地域が共に「倭」と記載されている。(画像は仁徳陵に西側を半周する遊歩道)

 倭(ウエイ)族は、玄界灘を挟む両岸に都市国家を造り、海上貿易で生計を立てたと伝わる。倭族らが建てた半島沿岸の国家が加羅(加耶)諸国、一方九州北岸に建てた国々が、ナ(奴)国、イト国、マツラ国だったと考える説がある。因みにナ国は後漢への遣使の見返りに、西暦57年、「漢倭奴国王」と彫った金印を光武帝から下賜されている。(但し実物は倭の人偏がない)
後の大和朝廷の国を何故「倭国」と言うようになったのか、東シナ海の海上商業集団の倭人との関係はあるのか、ないのか、それは未だに明確にはされていない。これを探求するには日韓の考古学者による共同研究が必要だ。しかし現状は戦前の共同研究が日本側にイニシアチブが握られた結果、研究成果が偏向したこと(一例、任那日本府が唐突に登場した)への不満や、戦後の韓国国民の反日感情によって、その端緒にも着いていない。(画像はこれも仁徳陵の遊歩道にて)

ここでひとつだけ重要なことを附言しておく。最近のことだが、日本人はどこから来たのか?を考察するため、現代日本人のDNAを調査した研究者がいる。その結果は実に意外なものだった。私たち日本人は列島先住民の縄文人を追いやり、そこにアジア人と混血した弥生人が拡がり、顔や姿形がすっかり変わって今日に至っている、と教えられてきたのに、その研究者の調査結果によれば、現代日本人のDNAの殆どが縄文人のものを受け継いでいて、半島や大陸人のDNAはそれほど多くなかった、と言うのである。

玄界灘の倭人の国々や半島の諸民族や大和の三輪王朝との関係については、また後に触れるとして、話を河内王朝2代目の大王(おおきみ)である仁徳天皇に戻そう。
今日大阪府下の中学、高校の日本史の授業では、仁徳天皇なる人物の実在を否定し、その御陵を「大仙陵古墳」などと言い替えている。勿論その時代は仁徳天皇とは呼ばずにオホササギの大王だったが、河内王朝歴代の王の中で最盛期の実在の王だったことは間違いない。だから記紀(「古事記」「日本書紀」の総称)にも、あれほど無数のエピソードが書かれている。それも仁徳には不名誉なものも実にたくさんあるのだ。(画像は仁徳陵の遊歩道で見つけた八丈神社)

 御陵参拝の後、御陵の西側の森の中を行く遊歩道を私はフエニックス通りに突き当たるまで歩いた。半周で20分くらいを要し、御陵の巨大さがよく分かる。
仁徳天皇(名付けたのは飛鳥時代の天武天皇か、)ことオホササギ大王は、世界最大の王陵である自分の墳墓を初めとして、堀江(後の大川)と言われた上町台地を横断する運河を造り、寝屋川沿いには茨田堤(茨田横堤の由来か)を造ったと言われ、人民の労働力を総動員する大土木事業を生涯繰り返した大王であった。大仙古墳建造に必要な労働力は100万人と言われ、2千人の労働者なら毎日働かせて15年掛かる労働量である。(画像は下の記事の竹内街道から右に西高野街道が分かれるところ、榎木元町)

 フエニックス通りを北側歩道に渡り、仁徳陵の倍塚である永山古墳の前を通り過ぎると、左に曲がる道があり、南海高野線をまたいで榎元町3丁方面へと進んで行く。途中に西高野街道と彫った石碑がある。三叉路に出た処で振り返ると竹内街道と彫った石碑が建ち、ここが西高野街道との分かれ道なのがよく分かる。さて南海本線堺駅の東口の真正面からスタートし、東に進んだ筈の竹内街道はどうしてこの道標の位置まで来るのか、実ははっきりとはしていない。

 とりあえずこの三叉路から竹内街道を東に進み、途中で軽食堂を見つけ、時刻は1時くらいだったが、やっと昼食にありつけた。その後、ひたすら東へと歩き、地下鉄御堂筋線の新金岡駅まで歩いて帰路に向かった。途中で大阪市内の百貨店に河内のお漬け物の売り場を出している「いせや」さんの本店を見つけた。