第九回 地下鉄新金岡駅から近鉄藤井寺駅まで

第九回 地下鉄新金岡駅から近鉄藤井寺駅まで

 暑夏の到来と共に中断していた竹内街道の歴史散策は、10月8日になって友人O氏に背中を押されて再開することになった。そして奈良街道の最後辺りを同行したT氏も誘うことになる。
3名は朝8時に難波駅に集合し、地下鉄(御堂筋線)に乗って新金岡駅に向かう。新金岡駅を地上に上がって、先ずは大泉緑地公園に踏み入れた。大泉(おおいずみ)緑地、対米開戦を前にして1941年、大阪府下で服部、鶴見、久宝寺と並んで戦時下の防災緑地とするよう造成が計画された。

 だが45年の敗戦で工事は一旦中断。69年になって工事は再開され、72年に堺市域と松原市域をまたがる一大公園が出来上がったが、その後も公園域の拡張工事は続いた。現在は植栽本数36万本、101.5ヘクタールの面積に達するも、最終的には123ヘクタールの公園を目指している。
大泉緑地の全域を歩こうとすると丸一日費やされるだろう。大泉池や、頭泉池などの巨大な池、それを眺める建造物、周りを歩く遊歩道、広大な花壇などもあり、駐車場もよく整備されていて、年間訪問者は250万人と公表されている。

 肝心の竹内街道だが、街道名が彫られた道標があった榎元町の三叉路からフェニックス通りに出るまでは街道もはっきりしていたが、その後、実は大泉緑地公園の入口付近まで、街道の位置確認が出来なくなる。中央環状線(フエニックス通り)の造成工事によって、街道の連続性が失われてしまった可能性がある。
前回、北側に平行する府道31号線こそが竹内街道だったと思いたく、車の多いフェニックス通りを避け、少しでも静かなそちらの道を選んで新金岡駅まで歩いた。だが新金岡駅から大泉緑地の玄関までは残念ながら、誰が見ても街道がフェニックス通りの下に埋もれてしまったようだ。(画像は大泉緑地公園正面エントランス付近から東に進む竹内街道)

 緑地の玄関から大通りを離れてまっすぐ東に向かう、竹内街道の入口は誰にでも分かる。
やはりこれも府道31号線だ。途中、「歴史のみち 竹内街道」と彫った現代の案内石碑を何個か確認しながら東へ東へと前進する。途中、昔の面影を残す建物もあった。

 やがて西除川(にしよけがわ)を越え、309号線を渡った処(丹南北の信号)のマクドナルドの店で一休みする。そこから東に進むと松原駅からまっすぐ商店街を南下してくる中高野街道と交差する信号がある小さな交差点に出る。この交差点の北側が岡商店街になる。この交差点にも竹内街道の道標と由緒書きの看板が立っている。

 交差点から更に東に入るとそこは立部、嘗て街道を挟んで宿が東西に並んだ宿場町界隈である。高層の公営住宅建設計画ができた時にこの辺りの発掘調査が行われた。そこから古代から近世までの様々な時代の遺物が発見される。特筆すべきは、ここ立部は堺市美原区の大保などと共に、河内鋳物、あるいは丹南鋳物と言われる、鉄製鋳物の生産基地だったことが証明されたことだ。

太古の昔、この辺りは丹比と書いてタジヒと言われた。それが中世になって北は丹北郡(今の松原市辺り)、南は丹南郡(今の堺市美原区辺り)に分かれる。丹南郡には太古の昔から半島の金属鋳造技術者が渡来し、鋳造技術を後の世に伝えながら、鍋など日用生活雑品の他、全国の寺社の梵鐘を半ば独占的に生産拠点が堺の町に移る戦国時代まで造ってきた。これらの職人たちを丹南鋳物師(いもじ)と呼び、大保千軒と言われる程、鋳物師が集まる生産地だったのである。

 竹内街道は立部を抜けると中央環状線の大通りを東西に渡り、車の一方通行の道を逆方向に歩く。すると堺羽曳野線を渡って南に行く道に入る。そこは羽曳野市野である。
新が池という池の周りを半周する形で道が東から南に向きを変える辺りで日吉神社と言う小さな祠があり、秋の大祭の直前という様子だった。その辺りから街道は本道から分かれて東の住宅地の中を進むのだが、その辺りにも昔の面影が残っていて嬉しくなった。
後編に続く