第十一回 藤井寺駅から河内松原駅へ 前編

第十一回 藤井寺駅から河内松原駅へ 前編

(初めに)私は歴史研究者としてはアマチュアだが、我が国の学校での古代史教育には二つの大きな欠陥があると嘆くのだ。一つは文字が無かった為に口述で伝えられてきた建国時代の天皇の偉業を表した「古事記」や「日本書紀」を、それが何百年も後になって皇族や貴族たちが編纂したものだという理由で全く無視していることである。
記述に年代の矛盾が多すぎて歴史資料として扱えないことを理由にするが、国民を悲惨な戦争に引きずり込んだのは戦前の過度な天皇崇拝がその一因と考える教育者も多く、「天皇が建国した国家などとは口にしたくもない」とでも考えているのなら、教育者や研究者にはあるまじき感情的動機である。そんな教育界だから世界一の規模の御陵を残した天皇の名すらも教師の口から素直に出ないのである。
もう一つは我が国の古代史が大陸以上に密接に絡んでいる筈の朝鮮半島の歴史について、一時的にも併合したという意識が国民を不遜にしたのか、あまりにも知ろうとはしなかったこと。授業で学ぶ東アジアの歴史は我が国には殆ど無縁の中華王朝の変遷ばかりである。


 前回で街道歩きは羽曳野の野中まで進んだ。だが歴史散策としては見落とした処も多くあり、もう一度藤井寺駅から河内松原駅まで戻りながら、ゆっくり散策をやりなおすことにした。11月5日、朝の8時半、前回も同行したO氏と阿部野橋駅で待ち合わせ、近鉄南大阪線で藤井寺駅に向かう。
なぜ再び藤井寺駅なのか。市の北側を流れる大和川堰堤付近の津堂に、河内平野に築造された最も古い前方後円墳があると聞いたからだ。駅から真っ直ぐ北に向かい、堺大和高田線を右折して市民総合会館の右の道をとって住宅地の中を北へと歩いた。私たちは古墳に着く前に小山善光寺にやってきた。これも渡来系の津氏によって造られた古いお寺だそうだ。目的地の津堂の地名も津氏所縁(ゆかり)かもしれない。


 さて記・紀(古代の官製史書、古事記・日本書紀)に記載された事項の年代は矛盾だらけと言ったが、それは例えばヤマタイ国女王は神功(じんぐう)皇后であるとの編者の思い込みや、建国の年代は出来る限り古く、意味のある年にしたいとの都合が働いたからであり、年代の書き換えにも法則があるかもしれないと、古代中国の暦や歴史書、そして半島の歴史書を丹念に調査して、古墳時代の後期では干支の周期60年の倍数で書き換えていることを発見し、又古墳時代の前期は半年が1年だったとの仮説を用いることで、記・紀に記載された事項の年代を海外の歴史書と矛盾が無いように修正した研究者がいる。「暦で読み解く古代天皇の謎」を著した大平裕(おおひら ひろし)氏である。


 記・紀の批判には、そんな時代に○○天皇などいる訳がないから信用できないというのがある。それは当然だ。漢字2文字の天皇の名は総て後世の天武天皇の時代に贈られたものだからだ。だから人物の名も、地名も、漢字表記を改め、往時の読みでカタカナ書きして、大平氏が計算し修正した年代に書き直せば、記・紀もれっきとした歴史資料に生まれかわるのである。前回、だから私は大平氏の計算に従って河内王朝の始祖、ホムタ・ワケ大王(応神天皇)の即位の年を390年と断定したのだ。画像は途中で見つけた古い民家。


次に産土(うぶすな)神社にやって来る。祭神はスサノオ尊(みこと)。この辺りもなかなか歴史的な名所旧跡があるものだ。そして私たちは目的地の津堂城山古墳にやってきた。濠(ほり)の部分には水はなく、ただの草地になっているが、堂々たる前方後円墳であることははっきりとしている。しかも天皇や皇族の御陵と比定されている訳ではなく、為に古墳の稜線の上にも自由に歩いて登ることができる。棺があったらしい円墳の頂上のみ柵をして立ち入らぬようにしている。


津堂城山古墳、発掘調査による築造年代は4世紀後半と推定。4世紀後半に亡くなった大王は、タラシ・ナカツヒコ大王(仲哀天皇)と、彼の死後27年間、国を統治したオキナガ・タラシ女王(神功皇后)の2人である。大王も女王も共に読み方はオオキミ。後者の御陵は奈良市山陵(みささぎ)町にあるから、それが正しければ残るは前者となるのだが、現状はそのような主張をする研究者も学者もいない。ただ私はこれくらい大規模な前方後円墳となるとやはり大王クラスと考えるべきだと思う。


記・紀では、タラシ・ナカツヒコ(仲哀天皇)は景行天皇に疎まれたヤマトタケルの遺児であり、子がなかった成務天皇に育てられた。又彼の突然の死(362年)の後に、ホムタ・ワケ(後の応神天皇)を産んだオキナガ・タラシ皇后と皇位継承を争い、敗れて滅亡する大和のカゴサカ王、オシクマ王らは彼(仲哀天皇)の先妻の息子たちだった。
この古墳から立派な棺が発掘され、三輪王朝時代の古墳同様、銅鏡や勾玉の副葬品が出たことが案内看板にある。歴史研究のアマチュアの私などが、これをタラシ・ナカツヒコ大王(仲哀天皇)の御陵だなどと主張してはならない。ただもしそう考えるなら、年代も、副葬品も、記・紀が伝えるエピソードと矛盾しないのである。


タラシ・ナカツヒコ(仲哀天皇)は、后のオキナガ・タラシや、腹心のタケノウチの宿禰(すくね 尊称)を連れ、九州のクマソ征伐に遠征し、その陣中で没した。記・紀では、九州から渡海して新羅を攻めよ、との神のお告げに従わず、神に誅殺(ちゅうさつ)されたとなっているが、戦いの最中、クマソの兵に射殺されたとの異説もあり、こちらを信ずる研究者が多い。そんなことはどうでも良いが、私が知りたいのは、神功、応神に始まる河内王朝が何故、かくも半島文化に同調するようになるのか?特に満州騎馬民族を遠祖に持つ百済(くだら ペクチエ)にあれほど傾倒して行ったのか?という疑問だ。その仕掛け人がこの九州に遠征した3名の中にいるような気がしてならない。それは又の機会に推理してみよう。 (後編に続く)