第十二回 近鉄南生駒駅から近鉄郡山駅まで

第十二回 近鉄南生駒駅から近鉄郡山駅まで

 歴史散策好きな仲間二人を供に、枚岡駅から暗越奈良街道を登って生駒山を越え、南生駒駅付近まで下った後は、竹林寺や往馬大社を巡って東生駒駅まで歩いたあの日の後、もう一日歩けばこの街道歩きを完結できると思うものの、日中の暑さがきつくてハイキングには不向きな季節だと言い訳し、つい涼しくなるまで四ヶ月も待つことになった。そして10月11日の土曜、同じメンバーが集い、南生駒駅から再び東へと歩き始めた。まだ近世の雰囲気が残る古い住宅地の中を、矢田丘陵(後生駒山地)の榁ノ木(むろのき)峠に向け、一間幅の坂道を登りだしたのは10時15分だった。


 暫く登って行くと矢田山の西側山麓を近鉄が住宅開発する為に国道168号線のバイパスとして造った、東生駒から萩の台駅まで結ぶ南北を縦貫する道路に出るが、そこから先の街道の一部区間が数十メートル南側に付け替えられ、暫くは新しい二車線のロードを登ることになる。途中、市立大瀬中学校の校門の前には万葉歌碑があって、どうやら兵として派遣される人の望郷の歌のようだが、漢字を仮名文字として使用した時代の文章が読めない現代人には、解説文を書いた立て札がほしいと思う。振り返れば生駒連山が遠望でき、暗峠から下って来た街道もよく見える。


 山道を榁ノ木(むろのき)峠まで登ると、尾根道沿いに南に進む矢田丘陵縦走路との分岐点があり、その先に榁ノ木大師と言われる弘法大師堂、賢聖院がある。お堂への入口の東側には榁ノ木がよく茂っている。その辺りから暫く人家が続く。左手人家の中には追分神社がある。暫く歩いて人家を抜けると山と田だけの風景が続く。大きく左にカーブするところに大昔の石の道標が二つ道端に並んで、丁度その曲がり角を右にとれば「矢田山遊びの森(子どもの森)」という広大な芝生の公園に出る。ファミリー向けの絶好のレクレーションの場だが、この日の家族連れは少なかった。そこで弁当を拡げて昼食とする。


 「矢田山遊びの森」から追分(おいわけ)はすぐだ。追分とは奈良の門前町へと進む道と、大和郡山の城下町へと進む道との分かれ路という意味だろう。街道沿いには「追分本陣」だった古い村井家がある。桃山時代、大坂城に向かう豊臣秀長がここで泊まったのかもしれない。かつてその前に有名な梅林が拡がっていたが、今は土壌改良工事中とのことで、梅の木の殆どが伐採されてしまい、草だけが生い茂る無惨な姿である。私たちは追分を後にして第二阪奈を跨ぐ陸橋を渡って、富雄川を渡り、砂茶屋に出た。今では茶屋があった雰囲気などは全くない。


 砂茶屋から東に進むと、五条山、宝来、尼ヶ辻駅を経由して再現された朱雀門のある三条通りに至る。私たちは奈良には向かわず、そこで右折し、第二阪奈を潜って富雄川沿いに南へ、南へと進んだ。十五分くらい歩けば登弥(とみ)神社にやって来る。登弥とは弥生時代、生駒山周辺を支配していた一族の名だ。祖霊神としてニギハヤヒの神を祀った。神武天皇が九州から大和に入った時代の登弥の長はナガスネ彦だ。神武天皇軍が河内湾から石切に上陸するのを阻止しようと戦った時に、彼が天皇の兄を弓で射てしまったこともあって、彼だけは降伏することも許されなかったのだ。神武天皇が大和盆地の他の種族を総て平定した時に、再び彼と戦争になった。すると甥のウマシマジが登弥一族を裏切り、彼の首を携えて天皇に降伏し、戦争が終結したと言われている。


その褒美にウマシマジには物部(もののべ)の家名と、連(むらじ)の姓(かばね)が与えられた。連の姓とは、その家が代々近衛兵を務めると公認された家柄だ。富雄川を挟んで神武と登弥が対陣したようだが、その場所と伝わる所は富雄川沿いに二カ所、そしてその北側の水源地に一カ所、計三カ所が共にこここそが正当な伝承地だと言い張っている。ただ私はその中で一番南側の砂茶屋付近の、ある宗教団体の所有地こそが、神武本陣の跡地だと考えている。しかし神武の存在も、その建国の事績も、総て歴史的事実ではなく、神話に過ぎないとする学者が多い中では議論にもならない。


そこから市街地に入って、地図に記されていた大織冠鎌足神社をお参りすることに。そこは住宅に囲まれた鬱蒼とした林だから場所は分かるが、肝心の入口を探すのに往生した。何故こんな造りなのだ。神社の由来を知って納得する。豊臣秀吉の弟、秀長が大和郡山の城主となって飛鳥の談山神社から鎌足公霊魂を城の西の、今の大織冠の地に移してお祀りした(大織冠神社)。だが秀長が大病を患うと談山神社側は遷座の祟りだと騒いだ。徳川幕府誕生の時、郡山の街と談山神社との争いを納めようと家康は神社を北に500メートル離れた山中に移すよう命じたのだ。氏子不在の遷座に人は嫌気さしたのか。因みに大織冠とは最高位の官僚の意味。鎌足臨終の時、天智天皇から贈られた称号である。大織冠のバス停から南へ南へと1キロ歩き、大納言塚に向かった。筒井順慶の後を引き継ぎ、郡山城主となって天下の名城と巨大な城下町を造り上げた豊臣大納言秀長卿のお墓である。到着は16時15分だった。休憩も入れて4時間程歩いたことになる。歩数はスマホで見れば家から約2万5千歩歩いていた。


私たちは最後に郡山城を訪ねることにした。城内の敷地の大半が郡山高校の敷地として利用されている。それでも昔の名城だった面影を残す場所は無数にある。元禄時代と言えば、誰もが赤穂浪士の仇討ちを思い出すだろうが、ドラマや小説の中では、大石内蔵助の仇討ちの企てをいろいろ画策して邪魔するのが将軍綱吉の御側用人の柳沢吉保である。柳沢家は将軍綱吉が死亡すると、江戸から甲斐の国に移住させられ、最後に大和郡山の藩主となった。その後は明治の世まで柳沢家がずっと郡山藩の藩主を務めた。城内には旧柳沢邸の建物が保存され、「柳沢文庫」として、累代の柳沢家に伝わる貴重な古文書、郷土歴史資料等が展示されている。これで「暗超奈良街道」歩きは終了するが、この次の第13回ではもう一度奈良街道を振り返ってその歴史的意義を考えてみよう。