第十五回 土師ノ里駅から上ノ太子駅まで 後編

第十五回 土師ノ里駅から上ノ太子駅へ 後編

平成28年5月5日、私たちは駒ヶ谷駅で竹内街道から脱線して大黒寺、壺井八幡宮、通法寺墓地で河内源氏三代の墓を参拝し、いよいよこの日の最後の目的地叡福寺へと向かった。今日は朝からかなりの距離を歩いてきたから、皆の足取りは急に重くなり、一部は遅れだす。

さて叡福寺は聖徳太子の霊廟がある寺で、今も絶大なる人気を博する聖徳太子の墓に一度はお参りしたいと、訪れる人はとても多い。にも関わらず、教育者の中には聖徳太子は実在したのか?と疑う者もいる。往時の文献のどこを探しても、聖徳太子なる言葉が登場しないことが理由である。それは当然のことであって、用命天皇の皇子、厩戸皇子に聖徳太子の諡号(しごう)が贈られたのは、太子没後のずっと後の天武天皇の世になってからで、それは太子のみならず、神武天皇から天智天皇までの総ての天皇の漢字2文字の諡号が贈られたのも、その同じ時である。だから太子の名が往時の記録に登場しないからだけの理由で、その存在を取り消すことはできない。

また聖徳太子生涯の代表的な研究書として梅原猛先生の「聖徳太子」(小学館)があるが、上下2巻、1600頁にもなる著作であって、それなどを読んでも太子不在論など笑止のことだ。


叡福寺や聖徳太子が親族の天皇たちの古墳を集中させた王陵の谷と呼ばれる磯長(しなが)に向かって、一路東へ東へと歩く。磯長の谷に集められた古墳群や、四天王寺や斑鳩寺など畿内各所に建立された仏教寺院の数々、聖徳太子が生きた証はいくらでもあるが、東アジアの中では、大乗仏教を説く根本的な三経(法華経ほけきょう、維摩経ゆいまきょう、勝鬘経しょうまんぎょう)の義疏(ぎしょ 解説書)の著作を残されたのは天才的な太子の華々しい偉業である。

元々中国大陸から伝わった学術書を読まれて著作されたのであろうが、大唐帝国が滅ぶや、宋王朝が大陸を統一するまで、大陸内は異民族が侵入し、何百年と戦乱が続き、仏教研究の著作は全くもって失われ、再び漢民族の宋朝が平和を取り戻そうが仏教研究のテキストを求めるなら、野蛮は非文明国の日本国から、それも数百年も前の聖徳太子の著作を輸入しなければならなかったのだ。漢民族にとっては屈辱的なことである。だから現代中国にしてみれば聖徳太子なぞ実在しないにこしたことはなく、何かにつけて米国寄りの日本を貶めたい中国共産党政権の思惑を知ってか知らずか、日本の左傾教育者たちは彼らに踊らされているだけなのである。

もともと叡福寺にある霊廟は、太子母の間人(はしひと)中宮様の為に太子が築造したものだ。西暦621年、中宮様が薨去(こうきょ)なされた。すると看病のお疲れが出たのか、太子妃の膳部(かしわで)の郎女(いらつめ)様が病に倒れられたのだ。今度は太子も政務を執らずに膳部妃の看病をなさることになった。やがて太子も看病疲れでお倒れになる。

622年2月、先ず膳部の妃がお亡くなりになって、翌日に太子が追うように薨去なされた。中宮様を葬る霊廟に、太子と膳部妃と3人一緒に葬ってほしいとの膳部妃の遺言の実行を強く求めたのは、妃の娘であり、斑鳩(いかるが)の上宮王家(じょうぐうおうけ)承継者、太子長男の山背皇子(やましろのみこ)様の妃の、舂米(つきしね)の女王(おうきみ)であった。

太子最後の正妃は、推古女帝の孫の橘女王である。また長く太子本宅で一緒に棲まわれていたのが、山背皇子を生んだ蘇我刀自古(そがのとじこ)妃、時の権力者、蘇我馬子の娘である。太子薨去の時に刀自古様が存命だったのかは定かではないが、こんな太子の埋葬は異例づくめである。そんな前代未聞のことがまかり通ったのは、父の太子も母の刀自古様も共に猛反対するのを押しきって、蘇我氏と婚姻を結ばず、自分の好きな女である妹の舂米女王を正妃にするような山背皇子だったから、蘇我氏も見放していたのだろう。蘇我宗家の承継者である蘇我蝦夷は、老いゆく父馬子の意志とは別に、推古女帝の後の御位は上宮王家には継がせないことをこの時から既に決意していたのかもしれない。

 


叡福寺にやっと着いた。これから石段を登ることに。

さて、聖徳太子が仏教の開祖、釈尊の教えを哲学的に深め、学問的に体系にまとめ、修行僧のみならずあらゆる人間、あるいは社会、国家そのものを導けるまでに熟成した大乗仏教に心酔し、その伝道に生涯を捧げたのは誰もがよく知るも、太子も実は人生の四苦や俗な人間社会から逃れようと一人密室に籠もって瞑想行に励まれる、つまり小乗仏教に身をおかれる時代があったのだ。その原因を作ったのは太子の母親、父用命帝皇后、穴穂部(あなほべ)の間人(はしひと)様の恋狂いであった。夫、用命帝の崩御の後、お寂しかったのか、夫と夫前妻、石寸名(いしきな)との間に生まれた田目皇子と男女関係になり、佐宮様という娘を産む事件がおきた。感受性豊かな太子にはどんなに衝撃的な事件であっただろう。間人(はしひと)様と娘の佐宮様は皇族の列から外され、流刑の身となられた。流刑先は丹後の寂れた漁村、今間人(はしひと)と書いて、タイザと読むあの蟹の名産地である。タイザと読むのは、太子のご母堂ハシヒト様がご皇族を退座されて来られた地である、との意味であろう。

石段を登って振り返れば、太子所縁の天皇方が眠る磯長(しなが)の谷が一望できる。

太子には蘇我馬子の愛娘の刀自古(とじこ)様と幼い頃からの親しい仲でおられたが、この母の過ちの事件以来、太子が女嫌いになられた為にお二人は疎遠となられ、太子は推古天皇の薦められるままに天皇のご長女を正妃とされた。宇治貝蛸(うじのかいだこ)皇女様である。しかしお二人には夫婦生活は無かったと見え、やがて正妃は太子に愛されないのをはかなみ、悲嘆のあまりに亡くなわれてしまう。この時天皇は太子には娘のことは咎めず、大乗仏教を学ぶよう指示され、わざわざ半島から高僧を呼んで太子の教師と成された。幼い頃から嫁ぐ人はこの人しかないと思い定めていた蘇我刀自古様が自ら父馬子に頼んで強引に太子の妃(みめ)になられたのもこの頃である。

かくして権力者蘇我馬子と縁戚になられた太子であったが、逆に政治上は蘇我氏との対立が激しくなり、為に飛鳥(あすか)から離れた斑鳩(いかるが)地方に政治政策を練る拠点を作ろうとなさった。それから太子は斑鳩の里から飛鳥の都へと一人馬に乗って通われることが多くなった。


石段を登れば広い境内が拡がり、奥の前方に小高い山が見えるが、どうやらそれが太子ら3名の合葬墳のようだ。

さて太子が斑鳩(いかるが)から飛鳥の都へと通われる途上で、一族の運命を変える女性との劇的な出会いがあった。一説によると彼女は農家の娘であって、名はホキキミと言った。太子はかがんで農作業するホキキミのふとももを見とれて恋に落ちたという説がある。太子はホキキミと逢うために飛鳥との道中を頻繁に往来していた。当然それが都中でスキャンダルになった。政治対立する蘇我氏には格好の太子攻撃材料だ。しかしこの時、天皇は政治改革派、行政改革派の太子の味方であった。だからすぐさま腹心の膳部家にホキキミを養女にさせ、膳部家から太子に輿入れさせるのを強行されたのだ。

今日、太子本宅だった岡本宮跡には法起寺(ほうきじ)が建ち、そのこから7分ばかり西に歩くと法輪寺があって、昔そこには太子の愛人ホキキミが棲んだ三井(みいの)宮があったのである。太子は蘇我刀自古様との間に4人の子供がいるが、なんと熟年になって一緒になられた膳部(かしわで)様ことホキキミ様には7名もの御子を生ませているのである。この二人の仲がどんなに睦まじかったか、性の相性がいかによかったか、それで充分解るというものだ。


 

更に石段を登り、聖徳太子、太子妃ホキキミ、太子母間人中宮様の墓の前に立って、太子の生涯を偲んでみる。

太子が斑鳩の主となり、歳をとられたからか、人間も丸くなられ、妥協の中に蘇我馬子との和解も進んで、いよいよ丹後に流されていた太子の母上を斑鳩に呼び戻されることになった。

その後、太子は母のことを、中宮様と呼ばせることにし、斑鳩の政庁である斑鳩寺の東に中宮寺を母の為に建立した。

大乗仏教を学び、その教えに生きる太子にとっては、親孝行は人間の道徳の中で最も大事なものであり、基本の基本たるものであったのだろう。だから母親が看病を必要とするなら、他人に任せず、自ら看病しなければならないと行動されたのだろう。それを見かねたホキキミ様が愛する夫を看病疲れから救おうと自分も姑様に付き添って看病されることになったのか。

太子の嫡男、山背大兄(やましろのおおえ)の皇子の親の埋葬に関する行為は、推古天皇の後継争いに皇子が敗れただけでなく、やがて634年になって、皇子を含む上宮(じょうぐう)王家一族全員が時の権力者、蘇我入鹿(そがのいるか)によって斑鳩寺ごと攻め滅ぼされることになる。

太子が建てた斑鳩寺や中宮寺は夢殿だけを残す廃墟となったが、後の白鳳の時代となって、時の権力者、藤原不比等(ふじはらのふひと)が更に大きな寺を再建した。それが今の法隆寺であり、中宮寺である。

私たちが叡福寺を出て上ノ太子駅まで歩こうとするところに丁度駅行きのバスがやってきて、全員の疲れもどかに飛んだようであった。

(完)