環境を常に浄土にした妙好人(みょうこうにん)に学ぶ

近鉄長野線富田林駅を降りて南に少し歩くと富田林町の標識がある狭い路地に入り込みます。格子戸や白壁の町屋が密集し、まるで江戸時代にタイムスリップしたようです。現存する四百軒余りの町屋の40%が、桃山期や江戸期の建造物で、法令により歴史的景観の保存が義務づけられた地区であります。富田林は戦国時代に「寺内町」として誕生し、明治に至る迄、南河内一番の商工都市として栄えました。
寺内町は近世初期に誕生した、浄土真宗の寺院を核に、土塀や環壕で守られた宗教自治都市宗教自治都市の呼称です。戦国時代に富田(とみた)の芝地と言われた荒地を京の興正寺が領主から銭で買い取り、分院を建立し、自由な生計を求める商人や職人を移り住まわせ、寺内町を形成して富田林と名付けたのです。

時代は遡りますが、お釈迦様の時代より遙かに時が移れば、いつしか教えが正しく伝わらず、やがては教えが滅びる末法の世が来るものと信じられていました。貴族が君臨する古代社会から、武士が台頭する中世封建社会へと移り変わる平安末期の人々が、天災、飢饉、伝染病と、度重なる戦乱に、末法の世が到来したものと信じたのも無理からぬことです。
平安末期の民衆は弱肉強食の世相に地獄を見、度重なる覇者の交替に諸行無常を感じました。民衆は、国家の保護を受けることで退廃した旧来の護国仏教に背を向け、救いの火を永遠に絶やさないと言われた阿弥陀仏にすがったのです。万人救われてこそ真の仏教であり、万人を救う法とは苦行や学識にではなく、南無阿弥陀仏の称名にこそあるのだ、という単純明解な「念仏」布教を狂喜して支持したのです。
鎌倉時代、親鸞親鸞(しんらん)は官僧の身ながら、法然が見出した禁制の他力念仏に傾倒し、流罪流浪の果てに一宗派を開き、浄土真宗の開祖となりました。浄土真宗は後に本願寺教団となって広く信徒を組織化して行きます。第八代法主、蓮如の時(室町時代)、教団は一挙に全国規模に肥大化いたしました。開祖親鸞の名が、悪人正機、非僧非俗、絶対他力、本願念仏、自然法爾悪人正機、非僧非俗、絶対他力、本願念仏、自然法爾(じねんほうに)などのキーワードを伴う独創的な宗教哲学とともに、広く世間に知られるようになるのは蓮如の時代になってからのことでした。
近世社会の夜明けとともに全国に散在した真宗寺院が中心になって、寺子屋という児童教育の場を提供し、その結果驚異的に日本人の文盲率を引き下げたこと、そして生命の尊さ、謙虚な生き方、他人あるいは弱き者に対する思いやり、勤勉に働くことの大切さ、など口酸っぱく説いてきたことが、明治時代の近代市民社会形成に計り知れない影響力を与えたであろうことを認めない人がいるでしょうか。
そこで忘れてはならないのは、近世末期から近代初頭にかけて僧侶ではなく在家の農夫や商人の中に、妙好人(みようこうにん)と呼ばれる、親鸞の教えを忠実に実践する篤信家が現れ出たことです。近世末期から近代初頭にかけて僧侶ではなく在家の農夫や商人の中に、妙好人(みようこうにん)と呼ばれる、親鸞の教えを忠実に実践する篤信家が現れ出たことです。これら妙好人たちは、揃って開祖親鸞聖人とその教えに感謝することを怠らず、日頃ふと湧き起こる物欲、色欲、権勢欲などの煩悩を、心底からえぐり出すほどに自己には厳しく洞察する一方心底からえぐり出すほどに自己には厳しく洞察する一方、いかなる人間にもその奥底にある仏性を認めようとする立場から、他人には精一杯寛大であるように、それどころか敵に見える者にすら感謝の念を持つように努めました。敵に見える者にすら感謝の念を持つように努めました。
よって妙好人たちの家庭の中は、舅も姑も息子も嫁も、自己を正当化する者は一人もなく、悪いのは常に自分であり、他があればこそ自己があるとの精神で生活したので、一切争いごとがなく常に極楽浄土であったとのことです。

親鸞聖人の時代から七百年近い伝道の歳月が重ねられ、開祖の教えが、妙好人と言われる人々によって結晶の如く開花したのではなかったでしょうか。
(完)