古代の神国日本に仏教伝来の衝撃(前編)

現代の日本人の宗教はと申しますと、宗派は千差万別であっても、その殆どが仏教徒であると言っても過言ではありません。遥か昔からそうなんだろうと漠然と思いがちなのですが、実は仏教が大陸や朝鮮半島から伝来するまでは、国民こぞって皇室のご先祖である天照大御神を中心とした八百万(やおよろず)の神々をお祀りしていたのです。

仏教が初めて我が国に伝わったのは、「護美屋が仏像持ってきた」と学校で覚えさせられたように西暦五三八年のことです。朝鮮半島南西部にあった百済(くだら)という国の使いが、仏教を携え、今の奈良県、三輪山麓の磯城嶋(磯城の嶋の意味、河内松原といった表現と同じ。日本のことを敷島の国と言う由来。)の都を訪ね、仏教の布教を欽明天皇に熱心に勧めたと言えば、皆様は学校での歴史の授業を思い出されることでしょう。しかし我が国の最も古い歴史書である日本書紀によりますと、不思議なことに五三八年は欽明天皇の治世ではなく、一代前の宣化天皇の治世となっています。実はその頃の大和の国は、二人の天皇が互いにご自分こそ正当な天皇だと争いながら並び立たれていたのです。

その二年後、大和盆地南端の山城に立て篭もっておられた宣化天皇が皇子様とともに謎の死を遂げられ、これで二つの王朝が対立する時代は終わりました。欽明天皇はお父上(継体天皇)崩御の翌年には即位されていたのですけれど、よほど腹違いのお兄さま達に同情なされる事情がお有りだったか、皇統系譜の記録までを書き改め、ご自分とお父上の在位の間に二人のお兄さま達、即ち安閑、宣化の両天皇の在位を記録に残させられたようなのです。しかも宣化天皇の遺児である皇女様を、わざわざご自分の皇后にされ、その皇子を皇太子(後の敏達帝)になさいました。そこには欽明天皇の亡くなられたお兄さま達への鎮魂の意味があったのかもしれません。

さて我が国に伝わりました仏教ですが、欽明天皇も次の敏達天皇も仏教の教え、即ち輪廻転生の教え、因果応報の教え、生命尊重の教え、人間平等の教え、等々の素晴らしさはよく理解なさっていたのですが、その布教を公認することはおできになりませんでした。それはもし仏を絶対神の位置におくなら、天皇家の祖先である古来の神々はその従位におかれる不安があったからだろうと思います。ただ欽明政権を支える豪族たちの中でも、朝鮮半島からの渡来系の子孫であって、元々仏教徒であった蘇我氏にだけは、政権樹立の貢献に報いる意味で、他への布教はしないと約束の上、特別に仏教への私的な信仰をお認めになっていました。

しかし仮に蘇我氏にだけでも仏教信仰が認められたことが、後に我が国を包括して神国から仏教国に変えて行くことになりました。なぜかと言いますと長期に渡った欽明天皇の治世に、政治権力を次第にその手に集中していった蘇我氏から、仏教への信仰が篤い子女が次々と欽明天皇の妃(みめ)や夫人(ぶにん)として我が国の頂点である皇室に送り込まれたことで、先ずは皇族方の中に仏教信仰者を広げる結果となったからなのです。

それから半世紀の月日が流れ、世は敏達天皇の治世、西暦五八五年、大臣(おおおみ)であった蘇我馬子は、遂に禁断の掟を破り、領地に寺を建てると尼僧を集め、大衆に仏教を布教する活動に着手いたしました。それを激怒なさった敏達天皇は、大連(おおむらじ)の物部(もののべ)守屋に命じて、直ちに寺を破却させ、仏像を浪速の堀江に捨てさせられたのです。物部の家人達はそれだけで飽きたらず、尼僧たちには人が群がる市の中で法衣を脱がせ鞭打つという恥辱を与えた、というのであります。最初物部の手勢の者達は、仏のたたりを恐れていましたが、自分たちに何ら仏罰が当たらないと分かると、異国の神である仏とそれを信じる蘇我の者達を笑い者にいたしました。だがその年の暮れ、敏達天皇が突然高熱を発して倒れられたかと思うと、そのまま崩御されてしまったのです。往時の日本人が、仏という異国の神が持つ神通力の凄さに、いかに驚嘆、恐怖したかは想像に難くありません。

さてこの頃の日本とは、どんな時代であったのでしょう。まだ日本という国号もなく、大陸や半島の人々から倭人の国だと呼ばれていましたので、我が国固有の言葉を表す文字もなかったものですから漢字の倭に大という字を付けて、「おおやまと」などと呼んだりして、日本列島内にある無数の諸国を統合する名としていたようですが、それも後の世に倭というのが、どうやら蔑称だと知ると、私達の先祖は慌てて「和」の字に変えたりしているのです。国民という概念も、国土という概念も、国家という概念もまだありませんでした。一部の支配階級の人々にだけ、氏(うじ)という苗字が与えられ、天皇との関係や世襲の役職を示す、臣(おみ)、連(むらじ)、君(きみ)などの姓(かばね)が与えられていました。一般の人民などは、名前もなく、まとめて奴(やっこ)などと蔑称され、氏姓を持つ人々によって家畜のように私有されていた時代なのでした。仏教の伝来によって、ただそれが国民の宗教を変えたというだけでは終わらずに、このような古代日本の社会構造と人権意識までをも大きく変革して行くことになるのです。
この続きは次号にてまたお話しいたしましょう。