小説「湊川(異本太平記)」3の2 第二章と第三章
第二章
久子は瀧覚を居間に通す。早速、夫との会談の様子を聞こうと気がはやった。
「瀧覚(りゅうがく)和尚、兵庫での戦いは、ひょっとして負け戦と決まっているのではありませんか」
瀧覚は笑って答えた。
「お方様、心配ご無用、大丈夫でござるよ。正成殿も拙僧にこう言われた。軍議の後、皆が席を立ったのを見計らい、主上はそっと殿様をお傍に呼ばれたのじゃ。口元に扇子を翳し、低いお声でおっしゃった。叡山に退却せよとの其許(そこもと)の戦術を取り上げること出来なかったことを許せ。其許が朕の為を思って謀ってくれたことは百も承知なのじゃと」
「それでは正成殿は兵庫への出陣には反対だったのか」
「軍議で兵庫にて決戦と決まった以上、黙って従うしかないと拙僧に申されました。すると主上は、正成公に、朕には朕の考えがあるのじゃ。其許は官軍三万を無事に京に戻すことだけを考えよと、尊氏の水軍は恐らく新田より先に和田の浜に上陸し、山陽道を退却する新田軍を追いかける直義(ただよし)の陸兵とで、兵庫で官軍を挟み撃ちにし、殲滅せんとするだろうと。そこでじゃ、其許(そこもと)が先に兵庫に到着し、和田の浜を陣取り、官軍がその後ろを通り抜けるまでの間だけじゃ、尊氏の上陸を何としてでも阻むのじゃ、それが其許らの使命だ、くれぐれも官軍には戦わせず、一兵も失わせずに京に戻すのじゃ、頼んだぞとおっしゃったとか」
久子はそれでも安心せず、和尚に食い下がった。
「しかし戦とは生き物、そんなに都合良く思い通りに運ぶとは限りません。夫なら、新田殿が天子様の撤退命令を素直に聞く方ではないと存じている筈」
瀧覚の表情から笑顔が消える。
「さすが千早の長き籠城戦を、ご一緒に戦われたご夫婦でござる。戦のことはよくご存じじゃ。いかにも、実は正成公も拙僧に同じことを申された。お方様、正直申すなら、この戦い、実際にどう動くのか、天のみが知ることじゃ。しかし何が起ころうと、正成公は連れて行った者たちを、できる限り多く東條に連れ帰りたいと何度も申された」
「和尚殿、夫は万が一の時のことも、何か申していたのではないでしょうか」
「それをお伝えする前に、拙僧、昨日の早朝、正成公とお別れし、高浜から樟葉まで淀の河を渡し船で渡った時じゃ、同船した旅人から聞いたのじゃが、新田義貞公について姫路までお供した兵は僅か一万足らずじゃそうな。恐らく天子様もご存じなく、正成公も存ぜぬまま、兵庫に行かれたでのではあるまいか。天子様から預かった大切な兵を、自らの不徳で失った新田様じゃ、賊軍を前にして戦場離脱などあろう筈がない。坂東の箱根での足利との決戦も無様な敗戦じゃったから尚更じゃ。兵庫を東西に割る湊川の川原は、新田源氏の名誉挽回の為の、地獄さながらの野戦場になるやも知れんのう」
「それでは天子様から賜った夫の使命が果たせませぬ」
「そうじゃった。では正成公はどうされるじゃろう。新田殿をなんとしてでも口説き落として戦場を離脱させ、代わりに楠木勢が、いや、いや、それは」
「和尚様、代わりに楠木勢が官軍の盾になるのでは、あるいは退却する官軍の殿軍(しんがり)を勤めるのでは。和尚殿、夫は万が一の時、私達にどうせよと言ったのですか」
「これはあくまでも万が一の時のことじゃが、もしも悲報が届いたならば、屋敷も領地も捨て」と言いかけて瀧覚はそのまま畳にうつ伏して泣き出してしまった。
第三章
兵庫での戦況、即ち新田軍が戦場を離脱した後に残された七百名余りの楠木勢は、足利尊氏や足利直義(ただよし)の大軍と孤軍奮闘で戦ったが、多勢に無勢、遂には全滅したとの悲報が南河内東條の楠木館に届けられたのは、戦いの二日後、二十七日だった。
久子は、瀧覚(りゅうがく)によって伝えられた夫、正成の命に従い、家人たちには暇を出し、屋敷を空にして、幼い子供達を連れ、観心寺の瀧覚の下に身を寄せることになる。
新田義貞軍は、兵庫の戦いでは無傷で退却しながら、楠木勢が全滅した翌日、わざわざ西宮辺りまで戻ったところを足利軍に追いつかれ、惨敗したと聞き、今上の君は遂に京を捨て、叡山に逃げられたという話が観心寺に伝わったのは、その翌日、二十八日であった。
六月に入ったある日、足利尊氏の命を受けた世瀬川有隣(よせがわありちか)なる者、正成の首を遺族に返すべく、南河内の東條の荘に入ったが、楠木家の館は既に空になっていたので、楠木家の人々を訪ねて金剛山麓の千早城まで出向き、そこにいた松尾季種(すえたね)に、正成の首とともに将軍尊氏公からの伝言を預けて東條を去った。
領主、正成公の首と共に、松尾季種が久子夫人に届けた将軍尊氏の伝言のあらましは次のようなものである。
「この度の戦は、正成殿が主上の命を受け、仕方なく当方に刃(やいば)を向けたものであって、正成殿が亡くなられた今となっては、ご遺族には何の恨みも無く、楠木家の旧領、東條の荘は安堵(領有を認める)としたい。遺族は安心して、今後も自分たちの屋敷に住むが良い。正成殿は、我らが包囲する中、湊川原に近い百姓家にて、生き残っておられた二十八名の御味方同士で刺し違えられたのであって、我らの中に正成殿のお命を頂戴した者はおらぬこと、よくご承知願いたいと、ここまでが将軍家の御伝言であって、次は有隣の私見でござるが、なぜ自決されたのであろうか、真相は知る由もないが、我らが思 うに、主上の御政道へのお諫めであったのか、それとも、天子様御親政の行く末への絶望感ではなかったかと」
松尾から世瀬川有隣の伝言を聞かされても、久子は夫が最後まで生き残った郎党たちと共に自決しなければならない事情が、まったく納得できずにいた。
久子には残された子供達が不憫で、今上の君への忠義に惜しげも無く命を投げ出した夫が憎らしくすら思えるのだった。
明くる日、瀧覚住職によって、正成や、兵庫で命を散らした楠木家郎党の者達の葬儀がしめやかに執り行われ、正成の首は寺の境内に手厚く葬られた。
第四章に続く