小説「湊川(異本太平記)」3の1 序章と第一章
序章
武家政権を嫌い、王政復古を望まれた天子様の下に勤皇の人々が集結し、鎌倉幕府を倒して成った建武の御親政ではあったが、時代の流ればかりは誰にも逆行させ得なかったか、僅か三年で綻びを見せてしまった。王政に叛旗を翻した足利尊氏、直義(ただよし)兄弟が、坂東から京に攻め上ったのは半年前のことだ。
尊氏が京で手にしたかったのは、今上の君とは皇統が違う光厳上皇様から頂けると話を付けていた足利幕府の開府を命ずる院宣である。光厳上皇は、五年前、今上の君が、倒幕の企ての露見によって北条氏に捕縛なされた時に、断腸の思いで神器を預けた方である。今上の君の復位と共に、この幻の天子様は上皇になられた。だが上皇様の院宣が得られぬまま、北畠顕家(あきいえ)率いる奥州軍や、新田義貞ら建武政府与党の武将によって、尊氏、直義兄弟は畿内からあえなく追放され、瀬戸内海を船で西走する羽目に陥った。
ところが、幕府開府を命ずる上皇様の院宣を携えた使者が、備後鞆の浦で、九州に落ちる途上の足利軍に追いつくと情勢は一変する。
一旦は九州に退くも、数ヶ月で息を吹き返し、尊氏は海から、弟の直義(ただよし)は陸から大軍率いて、再び武家の世に戻そうと京に向けて進軍を開始した。
建武三年(西暦一三三六年)五月二十日(今の七月月初か)、京の街を暫時安寧に保った梅雨の長雨だったが、民に時代の変遷を示すが如く降り止むと紺色の夏空が拡がった。
その日は、今上の君が、南河内の一土豪ながら、建武の御親政創生への貢献に応え、摂河泉三カ国の守護に任じていた楠木兵衛正成に、兵庫への出陣を命じられた日でもあった。
実は数ヶ月前、西海に落ちた賊の息の根を止めようと、足利に並ぶ源氏の長者、新田義貞に三万の官軍を預け、足利一族が落ちた先の九州への出陣を、今上の君が命じられていたのだ。だが義貞は九州に向かう途上、足利方に与力する播磨の赤松の城の包囲戦に徒ら時を費やしてしまった。
それには事情があった。京を発つ時に義貞に従った三万の武将達だが、西に進むにつれ行軍に遅れが出だし、姫路に着いた頃には一万の兵が従うのみであった。義貞は仕方なく姫路に留まり、後続の兵の到着を待つ。だが彼らは遂に義貞の下には戻らなかった。
足利の大軍が西から攻め上ってくる報に接し、新田義貞、急遽姫路を発ち、京の警護の為に退却を開始した。共に錦の御旗を掲げる両軍が激突する戦場は自然と兵庫になる。
第一章
南河内東條の楠木家の館で、正成の留守を預かる久子夫人がその報に接したのは、三日後の二十三日の午後だった。即ち正成が兵庫に向けて、千名の兵を率いて京を発った翌日である。風ひとつなく、まばゆいばかりに夏日が、東條の田園に照り返していた。
南江(なんえ)久子、二十歳で正成に嫁ぐ前は、十五の歳から、中宮嬉子(きし)様お付きの侍女として、阿野廉子(かどこ)様と共に今上の君にお仕えした。その後、南江家当主、兄正忠(まさただ)の薦めで、同郷の楠木家に嫁ぐ。この縁談を兄に勧めたのは、天子様の近習、日野俊基卿だったと久子は耳にしていた。だが建武の御親政が成った今となれば、二人の婚姻は、今上の君の計らいだったと確信するのだった。
因みに嘗ての久子の同僚、阿野廉子(かどこ)様は、早くから主上のお手が付き、主上の皇子様を三方もお生みになった。中宮様が若くして病により薨去なされた後は、内裏奥向きの最高権力者となられ、今は廉子(れんし)様とお呼びする。
今上の君の下から離れて久しい久子は、京に駐屯した楠木勢が兵庫にて戦う相手さえ、検討がつかない。もしかしたら、昨日のお味方だったのでは、昨今の、計算高く、移ろいやすい人の心を、しみじみと嘆く久子であった。
そこへ正成と共に京にいた長子、正行(まさつら)を始め、一族郎党の三百名余りが、今宵東條に戻って来るとの早触れが伝えられる。領主、正成の急なる出陣は、政権奪取を目指して、九州から攻め上って来る足利軍を、兵庫辺りで迎え撃とうとする新田義貞率いる官軍に加勢する為であると久子は聞かされた。
日没が遅い季節である。正行一行は、なんとか日の暮れる間際に到着した。久子は息子を戦場に連れて行かずに、故郷に帰した夫には心から感謝したが、戦上手の足利軍との野戦になるなら一兵でも欲しい筈が、何故三百もの兵を割いて故郷に戻すのか、夫の考えが今ひとつ理解できず、不吉な予感だけが胸に拡がる久子であった。
長子、正行(まさつら)は十二歳だが、既に馬に乗れ、東條に帰参した者達の中、領主の代理人として、ただ一人騎馬で戻ってきた。
正行は母に対面するなり、戦場に赴く父親から故郷に帰されたことを恥じ、父親にもしものことあれば、生きては行けぬと泣き出すのだ。久子は手のひらで激しく息子の頬を打ち、「長らく生きてこそ、お国の為に働けることもある」と叱咤した。
翌二十四日、菩提寺の観心寺住職、瀧覚(りゅうがく)和尚が、旅姿で館を訪れた。聞けば、一昨日の夜、摂津の桜井の駅(宿場)で、出陣途上の正成に遭ったのだと言う。
その時刻は、半日前、楠木本隊と分かれた正行(まさつら)一行が、桂川、宇治川、木津川が合流する手前の大渡りでの長雨の増水で難儀しながらの渡河を経て、八幡から東高野街道を南下し、宿泊する為に楠木家と親しい往生院六萬寺に到着した頃である。
正成は、予め瀧覚との待ち合わせの場所と決めていた桜井の駅で進軍を留め、和尚の到着を待ったことになる。夕刻になってようやく瀧覚が到着した。正成は待っていたとばかりに和尚と二人きりで話し込むのだった。
久子はますます夫の行動が怪しく思われた。兵庫への出陣の進軍を遅らせてまで、菩提寺の住職と会わねばならなかったのは、もしや万一のことを覚悟して、遺族への遺言を住職に託す為ではなかったのかと。
第二章に続く