小説「鷹と谷間の百合」

 鷹と谷間の百合

野瀬泰良(のせたいら)

山国の人知れぬ谷にもようやく春が訪れた。一羽の鷹が杉の木立を見下ろしながら悠々と飛んでいる。と何を見つけたのか、急降下の後、梢の間を縫うように潜り抜け、笹の葉で覆われる薄暗い谷間の一点に舞い降りた。
一輪の百合の花がようやく濃緑色になろうとする笹の葉の茂みに埋もれそうになっている。薄紅色に染まる花びらから甘い香りが漂っていた。
鷹は百合の花に向かってゆっくりと近づいて行く。百合の花も、それに気づいているが、鷹には見向きもしない。
鷹はしばらく黙って百合の花を見つめていたが、やがて尋ねる様に口を開いた。
「私の名前はファルケ。君はなんと美しい花なのだ。君の名を聞かせてもらって良いだろうか」
百合の花はちらっと鷹の方を振り向くが、すぐに後ろを向いてしまう。構わずに鷹は話を続けた。
「ねえ、君の傍(そば)にいてもいいだろう。何かしてあげたい気持ちで一杯なのだ」
百合の花はつれなく首を横に振り、どこかに行って欲しいとまで懇願する。
鷹は仕方なく数尺後ずさりするが、「ここであなたを見守っていたいから」と、そこから動こうとはしない。月が昇っても鷹はそこにいた。太陽がまた東の空から昇っても、やはり鷹はそこにいた。鷹はずっと百合を見つめていた。

もう一度太陽が西の空に沈むと、夜空には雲が広がり出し、やがて月も星も見えなくなって、杉木立の森の中が漆黒の闇に包まれたかと思うと、急に風がうなり声を上げるようになった。
鷹は何時の間にか、ついうとうとと眠ってしまっていた。翼を叩きつける雨粒の冷たさにはっと目を覚ました。凄まじい風雨のうなり声の中に、微かに自分を呼ぶ声が聞こえるのだ。
「ファルケ! ファルケ!」と百合の花の呼ぶ声が。
風に揺さぶられ、雨に強く叩きつけられる百合の花を見て、鷹は慌てて翼を拡げ、飛び上がった。百合の花の上に来ると、その上に覆い被さるように、翼を精一杯振るわせ、ホバリングを続ける。
「彼女を守るのだ。彼女の美しさを風雨から守るのだ」と鷹は自分に言い聞かせた。だが風は一層強く鷹を百合の花から遠ざけようとし、雨は一層強く鷹の背や翼を叩きつける。鷹は翼から力が抜けて行きそうになるのを耐えながら、寒さと疲労の中、ありったけの力を振り絞った。
雨は遂に止み、しばらくして明るく静かな朝がやって来る。鷹と百合の花は微笑みながら見つめ合っていた。雨にしっとり濡れた百合の花は。鷹にはその輝きを更に増したように見える。

鷹はこの谷に来る前、麓の里の上を飛んでいたのを思い出した。里にはスミレや、シロツメ草の花がいっぱい咲いていた。彼女たちは毎日毎日歌を唄い、小鳥や昆虫たちと一緒にふざけ合い、笑い転げていた。スミレの花は色目を使い、シロツメ草は身体(からだ)をくねらせ、空を飛ぶ鷹にも、この花園での淫らな遊びに誘った。
鷹はそんな誘いを拒否したことを嬉しく、誇らしく思う。
百合の花は、風に揺らめく笹の葉の中で、竹の様なまっすぐな身体で、ひとり凜と立っている。それが鷹には気高く、聖なる美しさに思えるのだった。

それから数日が経った。急に百合の花は沈んでしまい、鷹に口もきかなくなってしまう。鷹は心配して彼女に理由(わけ)を尋ねる。ところが百合の花はそれに答えないばかりか、鷹にどこかに行って欲しいと、あなたなど見たくもなくなったと言い出した。
鷹は驚く目で彼女を見つめる。だが百合の花は黙って顔を背けるばかり。
「もう終わったのよ、だからファルケ、私に構わず早く行ってちょうだい」
鷹は首を振るわせながら、空を見上げ、まっすぐ空に向かって飛び出した。
鷹が去った後、百合の花は泣き崩れながら、心の中で呟いていた。
「どうか許して下さい。私はもう数時間もすると枯れてしまうのよ。それを言えば、あなたはきっと最後まで私の傍(そば)にいて慰めてくれるわ。でもそれだけはお断りよ。あなたが私をただの花ではなく、美しい花として愛して下さったことが、どんなに嬉しかったことでしょう」
鷹は遙か上空をしばらく旋回していたが、やがて遠くの空に飛び去って行く。百合の花が咲いていた谷間を、太陽が明るく照らしていた。

(完)