古代の神国日本に仏教伝来の衝撃(中編)

お釈迦様がインドのガンジス河畔にて、この地球上の個々の生命体も、それを育む空気や水や大地も、すべては仏の心(神意)によって結ばれた巨大なひとつの生命体なのだと悟られた時代から、およそ千年を経た五三八年になってようやく我国に伝わった仏教が、その後二代に渡る天皇から固く人民への布教が禁じられたお話は既にいたしました。
敏達(びたつ)天皇の時、渡来人の子孫だからと私的な仏の信仰が許された蘇我一族の長である馬子(うまこ)という人が、天皇の方針を無視して寺をつくり民 衆への布教を始めたところ、天皇はたいそうお怒りになって我国の神々を祭る職にあった物部守屋(もののべのもりや)に命じて寺を破却させられ、仏像を捨てさせられました。その直後、天皇が突然崩御されたために、国民がこぞって仏罰の恐ろしさを知ったというところまで前回はお話しいたしました。
無論天皇が仏罰で崩御されることなど、あろう筈がありません。大陸から疱瘡(ほうそう 天然痘)が上陸し、またたく間に国中に広がりました。天皇がお崩(かく)れになったのも、この疱瘡が原因でした。しかも次に即位されたご兄弟の用命天皇も、馬子の姉にあたる生母に導かれ仏を信仰なされていたにも関わらず、同じく疱瘡に冒され、政務もろくに執れないご様子でした。用命天皇の皇子様のお一人が有名な聖徳太子です。この頃まだ十三歳でおられた太子は、天皇の病気平癒を仏様に必死で祈っておられたのです。
太子の祈りも虚しく、用命天皇は僅か二年の在位で崩御なさいました。結果、次の天皇を誰にするか、我国に仏教を入れるのか、入れないのかを巡って、蘇我氏と物部氏とが激しく対立するようになり、物部の館があった八尾付近で遂に戦争になりました。皇族方が崇仏派の蘇我氏を支持されたお陰で、豪族たちの多数が馬子に味方したのですが、それでも国軍を統率してきた排仏派の物部氏は戦上手であって、少数ではあっても断然優勢で、緒戦で蘇我軍には多数の死傷者が出る始末でした。

聖徳太子には様々な宗教的伝説が伝えられています。その中に次のようなものがあります。戦争に駆り出されたものの、まだ少年でおられた太子は、武器をとって敵と戦うよりも、味方に不利な戦況を挽回させるには四天王様に戦勝祈願するのが良いと考えられました。ご自分で彫られた四天王像に祈られ、傍にいた弓の名手、トミのイチヒという男に敵の本陣を指差して「あそこを射よ」と命じられました。太子が指差す先には、一本の大木が聳えていました。
イチヒがわけも分からず射た矢は、どうしたわけかひとりでに日頃の何倍もの距離を飛んで、敵の本陣に聳える高木の枝葉の中に消えて行きました。途端に物部軍が蜘蛛の子を散らすように退散したのです。イチヒの射た矢はまるで鳥のように何百メートルもの距離を飛んで、大木に登って勝ち戦の物見遊山をしていた敵の大将、守屋の胸を貫通したのです。そんなことが実際にあるのかどうかはさておき、敵の大将が弓の名手イチヒに射殺されたことでこの戦争は、蘇我氏と、蘇我の親族であるが故に味方された前の敏達天皇皇后様をとりまく皇族の方々と、仏教を広めたいと切望してきた人々の勝利に終わりました。

私も一端の宗教家ですから、時に人間の強い信念や、篤い信仰心が思わぬ奇跡を起こすことに決して疑念をはさむものではありませんが、この伝説については少し歴史的背景を調査して、その裏にある真実に迫ってみようと思うのです。
日本の古墳時代から飛鳥時代への移行期にあたるこの時代は、蘇我氏と物部氏とが競いながら、天皇家と対等に国を支配していました。蘇我氏は娘を后に出して天皇の外威となれる臣(おみ)という地位を、物部氏は天皇の親衛隊となり、天皇に代わって国軍を統率できる連(むらじ)という地位を世襲していました。そのような世襲できる地位のことを姓(かばね)と言いました。
渡来人の子孫である蘇我氏が何故そんな高位を得たのか不思議でありますが、はっきりしたことは分かりません。一説では神武天皇に始まる建国戦争に協力した譜代の豪族として臣の姓が与えられた葛城氏という名門の一族がいて、たびたび天皇に后を出していたのですが、その名家もやがて衰退しまして、その後葛城家の跡とり娘さんを嫁にした、馬子の父、蘇我稲目という人に、その地位や権益が譲渡されたのだと言われているのです。
一方「連(むらじ)」は、神武天皇に始まる歴代の天皇方とともに建国戦争を戦った豪族に与えられた姓です。蘇我・物部戦争の百年前は、大伴氏という一族がその筆頭者でした。この大伴氏というのは、九州から神武天皇の「伴」をしてついて来たクメ軍団の子孫です。
その神武天皇の近畿上陸を阻んだのは、天皇の祖先と出身地を同じくしながら一足先に大和の西北部に入ったニギハヤヒという人を祖先とするトミの一族でした。天皇はトミ族の長、ナガスネ彦に河内湾からの上陸を阻まれ、仕方なく紀伊半島を船で半周し、熊野道経由で大和に入らなければならなかったと古事記や日本書紀に書かれています。
この時トミ族の中から主人を裏切って、神武天皇の陣に駆け込んだウマシマジという男がいました。このウマシマジは、ナガスネ彦の妹の息子にあたる人物だそうで、彼の下にも多数の部下がいました。最後まで抵抗したナガスネ彦とともにトミの人々は神武天皇に滅ぼされましたが、その前にトミ族を寝返ったウマシマジの一派は朝廷与党としてその後もますます出世していくのです。それが物部氏の祖先だったという訳です。
物部氏は朝廷の要職の地位にあって、嘗ての主家の人々の子孫を奴隷のように従えてきたのです。天皇からの信任もあつく、石上神宮で国の武器を保管することもありましたし、大伴氏が衰退して後は大連となって国軍を統率する地位にもありました。 ですから守屋を射殺したイチヒという人は、聖徳太子の部下でも、蘇我馬子の部下だったとも考えにくいのです。彼は長く物部氏に支配されてきたトミ族の出でした。ですから強制的に物部軍に従軍させられたのです。いくら守屋でも、陣営内の至近距離から射られた矢は、防ぎようがなかったでしょう。だがイチヒが物部軍に参陣していたとするのなら何故、自軍の大将を裏切って射殺する必要があったのでしょうか。

それを推理する前に思い出したいのは、聖徳太子伝説の中で、用命帝の治世、太子が、国中にあふれた疱瘡に苦しむ病人たちを、南大和の上宮に集められ、介護をなされたという話なのです。この話は、隠れた仏教徒や、医学の知識を持った渡来人たちが力を合わせ、全国規模でこの伝染病に苦しむ人々の治療にあたったという実話を、象徴的に太子お一人の偉業に変えられたのではないかと私は思うのです。昔々の大和朝廷建国戦争の因縁によって、被支配階級に閉じ込められていた人々が、どんな人間をも平等に介護する仏教徒たちの姿を見て、目から鱗が落ちるように人権意識に目覚めたのではないでしょうか。
一方、物部を初めとする古来の神々を信仰する勢力は、病気は穢れだとして、病人が出た家を焼き、病人たちを領地から追い出しました。もしかしたら冷たく追い出された病人たちの中に、イチヒの親族がいたのかもしれません。恐らく介護の甲斐も無く死んでいく者もいたのでしょうが、介護を尽くした仏教徒たちから、善人の死後の世界は極楽浄土であって、また何時の日か別の人間になって生まれ変わって来ることも出来るのだ、人間の生命は無限なのだと教えられ、きっと心平安に息を引き取ったことでありましょう。
まさかトミのイチヒが、大昔の神武天皇建国時にまで遡って、先祖ナガスネ彦の恨みを果たすつもりで物部の大将を射殺したのではないでしょう。しかしながら、これは仏教的な因果応報にも見えますから、歴史というのはとても興味深いですね。ただイチヒにすれば、この戦争がもしもこのまま物部軍の勝利になれば、人間には生まれる前から上下の差別がなく、平等なのだと説く思想が、この国から永遠に失われるかと思うと、どうしても自分で自軍を滅亡させなければならなかったのではないのでしょうか。  (後編に続く)