古代の神国日本に仏教伝来の衝撃(後編)

聖徳太子の大乗仏教を取り入れた国つくり
朝鮮半島から仏像とともに仏教が伝来したのは六世紀前半ですが、それまで国民はアマテラス大御神やオオクニヌシなどの神々を崇拝していましたし、太陽神アマテラス直系の子孫である天皇様が治められる日本国でありますから、仏教が東アジア全域に広がった素晴らしい教えであっても、そう簡単に我が国に根を下ろせる訳ではありません。

シリーズの前編、中編でもお話ししたように、天皇にお仕えする群臣にも、またご皇族の中にも、仏の教えをこの国に広めたいと考える人達と、異国の宗教はごめんだとする人達とに分かれていました。そこへ聖徳太子の父君、用命天皇の崩御(ほうぎょ)が契機となって、崇仏か排仏かに加え皇位継承が絡んでの戦争となりました。結果は崇仏派の蘇我馬子と、馬子と血縁関係にある皇族方の勝利となりました。若き日の聖徳太子、この頃は厩戸皇子(うまやとのみこ)と言いましたが、崇仏派の戦士として勇敢に排仏派の物部(もののべ)の兵らと戦われました。
物部討伐戦争が終わると、敏達(びたつ)、用命両天皇の腹違いの弟君、聖徳太子生母、間人(はしひと)様の実の弟君にあたる皇子様が、蘇我馬子に推されて崇峻(すしゅん)天皇として即位なさいました。だが天皇はその後、サポーターだった蘇我馬子を次々に裏切って行かれました。いつまでたっても仏教公認の宣言はなさらず、逆に石上神宮にいた物部親族の美しい巫女を後宮に入れられ、今にも排仏に転ばれそうな雰囲気でした。
それよりも馬子が天皇を警戒するようになったのは、昔から天皇自身は無防備で、連(むらじ)と呼ばれる群臣のみが天皇を守る軍を公然と持ち得たのに、天皇は大連(おおむらじ 連の長)の物部が既に滅んだからと、天皇直属の二万の軍を強引に編成されました。
天皇には中国や半島の先進諸国に学ぶ軍政改革だったのでしょうが、神武天皇以来、天皇家と群臣が交わしてきた約束事を、天皇が一方的に違えたと蘇我馬子は激怒したのです。

蘇我馬子は天皇の軍がいつの日か蘇我を滅ぼしに来るのではという不安を排除するために先手を打ちました。二万の官軍が半島新羅との戦争のため北九州に派遣され、天皇の警護が手薄になった機会をとらえて、馬子は天皇に妃として差し出した我が娘をやるからと若い男をたぶらかし、宮殿内で天皇を暗殺させたのです。そして馬子は天皇殺害とその妃を犯した罪まで追求してその男を死罪にしました。
この時、皇太后様の愛娘であったことで皇族の中では崇峻天皇より実権をお持ちだった炊屋媛(かしきやひめ 敏達天皇皇后)様は、馬子の朝廷をないがしろにした暴虐な行いには大層ご立腹なされたのですが、とは言うものの九州から二万の官軍が蘇我討伐に戻って来れば国中が収拾のつかない大混乱となろう、それだけは抑えなければならないとご自身でこの事件の泥を被り、都の変事は予定されたことであり、冷静に任務を遂行せよとの命令書を九州にいる官軍に出されました。次の天皇は炊屋媛様をおいて他はないと天下人馬子をして思わしめる、正に歴史が動いた瞬間でした。そしてこの炊屋媛様が推古天皇、我が国初めての女帝として即位なされたのです。
その時、女帝の政務を補佐する摂政の太子となられたのが、二十歳になられたばかりの厩戸皇子、つまり後に言う聖徳太子でした。そして翌年の五九四年に、天皇は我が国での仏教伝道を公認する宣言をなさいました。朝鮮半島から仏教が伝わってから、既に半世紀の時が経っていました。

仏教が教えるテーマは二つあって、一つは上求菩提(じょうぐぼだい)と言って、修行によって心の鍛錬をして悟りを得ること。もう一つは下化衆生(げけしゅじょう)と言って、苦悩する多数の人々を仏の教えを伝えることでその元を断って救うこと。仏教には小乗仏教と大乗仏教とがあり、分かりやすく言うなら、前者のテーマを強く求めるのが小乗仏教、後者のテーマを強く求めるのが大乗仏教だと考えても良いでしょう。
さて聖徳太子は半島高句麗からやってきた高僧に大乗仏教を学び、小乗仏教を捨て、大乗仏教だけをこの日本に入れられました。そんな聖徳太子も実は太子になる前の一時期、外部との交わりを絶って座禅に明け暮れる日々がありました。その原因は太子の生母、間人(はしひと)様にありました。間人様は愛する夫(用命天皇)を疱瘡で失った後、蘇我一族(間人姉弟は馬子の姪、甥)でありながら物部側に走った弟、穴穂部(あなほべ)皇子の命まで、物部討伐の直前に馬子によって奪われた二重の精神的ショックからか、夫の先妻が産んだ義理の息子と出来てしまい、子供ができるという事件が起きました。
馬子は蘇我一族の恥を隠したいと考えたのか、あるいはそれを口実に間人様のもう一人の弟、崇峻天皇殺害計画の邪魔だったからなのか、間人様母子を都から遠く離れた丹後の漁村に隠棲させました。最近まで丹後には「間人」と書いてタイザと読んだ漁村がありました。皇后様が皇族を「退座」されて住まわれた、の意味でしょうか。そこで獲れる蟹は間人蟹(タイザガニ)と呼ばれ、冬の丹後の名産になっていますので、こちらをご存知の人の方が多いかもしれません。晩年の間人様は、太子が飛鳥から斑鳩に転居なされたのを機に、再度皇族として斑鳩宮に迎えられ、以後は中宮様と呼ばれました。

さて若き日の聖徳太子は、母親のことで煩悩の強さをまざまざとお知りになり、いかにすれば煩悩に立ち向かえるかと修行を続けられたのですが、上司の推古天皇に引き合わされた高句麗の高僧を師として大乗仏教を学ばれてからは、すっかり人生観や女性観を変えられたようです。まだまだ未開の後進国である我が国が、律令制度を整えた東アジアの先進諸国に追いつくには、個人の魂の光明化を求める小乗仏教よりも、社会全体の光明化を図る大乗仏教の教えを広めることの方が急務だと太子は悟られました。
太子は、群臣の子弟から出自にとらわれず人材を集められ、彼らを官僚にして政府を創り上げられました。官僚たちの官位を能力本位で分ける冠位十二階の制を定められ、官僚たちの行動を戒める法である憲法十七条を制定されました。また数度に渡る遣隋使を派遣なさいましたが、隋の周辺諸国とは違って、一度たりとも中国皇帝から日本国王が領土を安堵される形はとらず、終始対等な関係を保たれる見事な外交手腕を見せられました。
また太子創建七寺といって、四天王寺、橘寺、広隆寺、法隆寺、法起寺などの大伽藍の寺を次々と建てられました。また仏教研究家としても歴史に残る足跡を残されました。大乗仏教の三大経典の解説書「三経義疏(さんぎょうのぎしょ)」を書き表されたことです。おそらくこれが我が国で著された最古の書物であろうと言われています。
また「日本」の国号や、「天皇」という呼称を最初に考案なされたのも聖徳太子でした。しかし我が国が「天皇国日本」として歩み出すのは、それから百年も経った天武天皇の治世でした。そんな先見の明がある太子でも、できなかった国政改革がありました。それは国土と人民を国家に所属させるという、今で思えば当たり前のことでした。しかし仏教の影響を受け、生涯争いごとや対立を嫌われたため、群臣から領土人民を取り上げることができぬまま、六二二年、四十九歳の若さでお亡くなりになりました。
その二十三年後、中大兄皇子(天智天皇)や中臣鎌足」らによる大化の改新のクーデターによって、長い間、領土と人民を私有してきた豪族を代表する蘇我氏が滅ぼされ、聖徳太子が理想とされた、公地公民の制が、そして律令制度が、この国に成ったのは説明を要しないでしょう。(完)