第二回 葛井寺合戦、楠正行騎馬軍団の華麗なる初陣

摂河泉の治安維持に四国細川勢が出動

将軍、足利尊氏の補佐役であった弟、直義(ただよし)は忍びの者から、六月に吉野朝廷が楠木正成の遺児、正行(まさつら)を招いて京奪回を目論む軍議を開いたとの報告を受けても、身の程知らずが、何を夢想するか、と笑って動じることはなかった。ところが八月に入って京の甲冑(かっちゅう)師から、河内や和泉の同業者が武具の補修の応援を求めて来たとの情報を得る事態となっては、いくら南朝方を見くびる直義でも、高師直、細川顕氏(あきうじ)、上杉重能(しげよし)、畠山直宗(ただむね)ら、主要な幕僚たちを集めて軍議を開かざるを得なかった。時に一三四七年八月九日。

 軍議の結果、大事をとって河内和泉の守護(しゅご、国守の鎌倉以降の呼び名)、細川顕氏(あきうじ)が、配下の守護代らに臨戦態勢をとらせ、本国の讃岐(さぬき)勢を兵庫に上陸させた後に、彼らと天王寺で集結し、南河内の楠、和泉の和田の動きを封じることで摂河泉の治安維持を図ることとなった。しかしこの軍議の前夜、既に楠正行、正時兄弟、和泉の和田助氏らは、高野山麓の紀州隅田城を目指し、数百名の精鋭部隊を引き連れ、夜陰に紛れて南河内東条(今の河南町)を出立していたのである。
翌十日、元々南朝贔屓(ひいき)の地域に孤立する紀州隅田城の畠山勢は、楠、和田の奇襲を受け、城を包囲された後に投降を勧められると、戦うこともなく降参し、城を明け渡してしまった。楠正行による隅田城無血攻略の報は、直ちに京の尊氏や直義の下に届けられた。しかし四国の細川勢が兵庫に上陸しない内は打つ手も無く、奪われた隅田城を放置するしかなかった。
八月十七日、和泉和田(今の岸和田)の和田正武(まさたけ)は数百名の手勢を引き連れ、大鳥に現れたかと思うと翌日には堺浦に進出した。同日、本国の讃岐(さぬき)勢が神崎に集結を完了したとの報を受け、細川顕氏(あきうじ)は京を出立し、急ぎ神崎に向かった。
二十一日、四国勢と合流した顕氏は、住吉で和田正武率いる武装集団と対峙(たいじ)することになったが、終日睨み合った後に和田軍の方が退却した。

池尻の河内守護代が奇襲される

八月二十二日、細川顕氏は、和田勢が退却したことに気を良くしたが、慎重な彼は和田軍を追わずに、南河内東条(河南町、正成亡き後、楠氏は山深い赤阪から平坦地の東条に本拠地を移動した。)と和泉和田(岸和田)ともに等距離を保つ池尻(狭山池北岸)に、河内守護代、秋山四郎次郎率いる数百騎の騎馬兵を派遣して、ここを楠、和田の動きを監視し、動きを封じる治安維持の拠点にしようとした。
二十四日未明、秋山四郎次郎は、池尻の陣屋で眠っていた処に突然襲撃してきた敵兵に矢を射かけられ、外に飛び起きたが、見れば敵は歩兵で僅か数十名、その遙か後ろに菊水の軍旗を掲げた総大将、正行(まさつら)率いる僅かな騎馬兵の姿が見えるではないか。よし、奴を討ち取って手柄にしようと陣屋の部下達に出陣の命を下して見回せば、敵の矢傷を負って呻(うめ)き苦しむ者多く、よろめきながら陣屋の外に飛び出す者ばかり。そこで自分たちが置かれた状況を初めて知ることになる。夜中の内に和田助氏や楠軍の大塚惟正(これまさ)率いる騎馬軍団数百騎によって完全に包囲されているではないか。秋山四郎次郎は、部下の兵等が楠・和田の騎馬兵らの思いのままに蹂躙(じゅうりん)されるのを、ただ睨んで堪えるしかなかった。敵の包囲網をやっとの思いで抜けだした秋山は、大半の部下を失って、北の丹下城(大塚山古墳を利用して造られた砦)に向け敗走するしかなかった。
やがて細川顕氏がいる天王寺の本陣に逃げ戻った味方の兵から、楠、和田勢の実力の程を存分に知らされ、その恐怖心が足利幕府内にも伝播(でんぱ)されることなった。直義は尊氏を説いて、僅か二千にも及ばない楠、和田を征伐するのに、西は備前、東は近江に渡り、讃岐、播磨、摂津、但馬、山城、河内、和泉、それにたまたま京にいた下野(しもつけ)の宇都宮貞綱も加えて、十カ国、五千にも及ぶ大軍の出動命令を出したのである。

長引く八尾(矢尾)城の包囲戦

九月九日朝、楠家の将、大塚惟正の兵が東条から葛井寺(ふじいでら)に進出する。同日のほぼ同時刻、和泉の和田勢及び紀州からの加勢が誉田(こんだ、応神陵付近、古代にはホムタと言った。)の西の石川川原に集結を完了した。そこへ大塚勢を追うように東条を出立した楠正行(まさつら)正時兄弟らが率いる主力部隊が合流し、計八百騎の軍勢となって菊水の軍旗を翻させながら八尾方面に向け進軍を開始した。
葛井と書いて「ふじい」と読む理由を調べると、この地に住んだ渡来系の白猪(しらい)氏が奈良時代に葛井(ふじい)氏と名を改め、そこに氏寺、葛井寺を造営したとある。(白猪とは百済のハングル訓みのペクチエの当て字ではないかと筆者は考える。)
途中、楠軍は今の柏原市安堂付近で大和川を渡河。秋山四郎次郎の命を受け、丹下城を出て敵軍の大和川渡河を監視していた秋山彦六は、慌てて東高野街道を北に退却し、久宝寺川(長瀬川)を渡って八尾(矢尾)城に立て籠もった。八尾城は、往時、古代の河内湾(淀川、大和川、石川の水が流れ込む広大な湖であって、古代は現在の大阪市東部、守口市、門真市、大東市西部、東大阪市北部の地域が湖面に覆われていた。)の名残である深野(ふこの)池に流れる往時の大和川の下流、玉櫛川(玉串川)と、同じく河内湾の名残である新開池に流れる往時の大和川の下流、久宝寺川(長瀬川)とに分流する二又の内側にあって二つの河に挟まれる天然の要害であった。
恩智(おんじ)に到着した総大将、楠正行は、和田助氏の手勢を西方に前進させて八尾城の南に陣を張らせた。主力部隊は高安山山麓にあって河内平野を見渡せる教興寺境内に陣を張り、西の八尾城に立て籠もる秋山彦六勢と睨み合った。
この戦況を知った天王寺の本陣は、直ちに丹下城の秋山四郎次郎に救援に向かわせた。因みに八尾城があった位置については、八尾市本町付近とする西郷説と、南本町、高美町、安中町付近とする八尾座説とがある。
教興寺の楠主力部隊と八尾城の秋山勢の双方が睨み合う内に十日を超える日々が費やされた。細川、佐々木、赤松らが駐屯する天王寺本陣では、敵方が八尾の小城に何時までも拘るのは、総大将、正行の若さから来る戦略の疎さだと考え、ここは幕府軍を三手に分け、近江、佐々木勢を左翼となして八尾城に急行させ、楠の本陣、教興寺を攻めて正行の息の根を止め、摂津、赤松勢を右翼として葛井寺南面に押し出して和田勢、大塚勢に当たらせ、本隊の細川顕氏その他の主力部隊は、楠の本拠地、南河内の東条を留守中に攻め、彼らが二度と立ち上がれぬ様、領民の家々から田畑まで総てを焼き払うことにした。

譽田の森が幕府軍を追って動き出す

幕府方の動きは逐一斥候によって教興寺の楠正行(まさつら)の下に伝えられた。九月十七日、楠正行は急いで東条への退却を命じ、教興寺の陣を撤収した。幕府軍の左翼、佐々木勢が八尾城の北側に現れた時、八尾城を南から攻めていた和田助氏は、近辺の民家に火を放って、主力部隊と入れ違いに教興寺へと部隊を移動した。
幕府軍右翼、赤松勢は大塚勢が籠る葛井寺の南方に進出した。この赤松勢を後尾から襲ったのは和泉の和田正武率いる百騎ばかりの騎馬兵だ。踵(きびす)を返して赤松勢が和田正武に向かうと、こちらも馬首を返して和泉方面へと逃げ去るのだった。
本隊の細川勢、宇都宮勢、備前勢、但馬勢合わせて約二千騎が、楠・和田勢のさしたる抵抗もない内に早くも譽田の森(応神陵や倍塚の森)が見える野中辺りの草原に到着した。あの森の向こうが敵の領する東条の入り口だ。日が暮れない内に東条に入りたいものだ。佐々木勢は楠本隊と合戦中であるからここにはいないが、赤松勢が和泉の和田軍を追ったことを知らない細川顕氏(あきうじ)は、彼らの到着が約束の刻限に遅れているのを苛立った。
そこへ折れた矢が鎧に刺さったままの姿で北方より走り来たった騎馬武者が「八尾城の者でござる。楠勢の猛攻により城主、秋山彦六殿は討ち死に、佐々木殿も破られて北へと引き上げてござる。八尾城は落城寸前。一刻も早い救援をお願い申す。間もなくこちらに楠の精鋭部隊が押し寄せるであろうが、ご用心召され。」と大音声で叫ぶと、馬首を返して名乗りもせずに元来た方向へと疾風の如く駆け去った。見れば彼の行く手には何条にも黒々と煙が立ち上っているではないか。

譽田の幕府軍は、慌てて馬に鞭(むち)あて一斉に八尾城救援に駆け出した。それを見定めたかのように、風もないのに譽田の森が急にざわざわと動き出した。正面に直ぐにでも現れそうな楠精鋭部隊との衝突に心を奪われ、気が動転して後ろを振り返る余裕のある者などいなかった。譽田の森からは、鎧や甲にくくりつけた枝葉を祓い落としながら、何百もの武者たちが姿を現し、森の奥に隠されてあった何百頭もの馬が引き出された。彼らこそが楠軍の裏をかいて東条を攻める幕府軍を、その又裏をかいて先回りし、領地の入口で待ち伏せしていた楠正行(まさつら)率いる騎馬軍団の主力部隊であった。その数、六百五十騎。
八尾城へと急ぐ細川顕氏(あきうじ)はふと不思議な感覚に襲われた。背後から何かが追いかけてくるようだ、それもただならぬ数が、・・・彼ははっと後ろを振り返った。「敵だ! 敵襲だ!」不意を突かれた幕府軍は、喚声を上げて背後から襲いかかる敵の騎馬軍団に蹂躙され、ススキの穂にも見える馬上に振り翳される無数の白刃の餌食にされ、阿鼻叫喚の叫び声を上げながら潰走するのを総大将、顕氏は止めようも無かった。彼は僅かな部下を引き連れ、葛井寺の境内に逃げ込み、赤松勢の救援を待った。顕氏の後を追ってきた正行によって寺は包囲された。付近にいた大塚勢は、総大将の細川顕氏を救おうと葛井寺への突入を図る赤松勢の阻止に努めた。
だが赤松勢は寺内突入に成功し、中にいた細川顕氏を囲んで脱出させ、天王寺に向けて共に逃げ帰った。その後に八尾から楠正行の行方を追って葛井寺の戦場にのこのこやってきたのは佐々木氏頼、氏泰の兄弟である。彼らは正行の首を求めて来たのであるが、味方の将兵の殆どが京に逃げ戻った後であったので、多勢に無勢、逆に彼らが和田、楠に挟み撃ちにされ、弟の氏泰は命を落とし、兄の氏頼も命からがら京へと逃げ帰るしかなかった。葛井寺合戦は正行の作戦が見事に功を奏し、幕府軍の大敗北に終わったのである。
(両軍の戦記は、関東軍参謀、田中俊資著「楠正行」第二巻の参照要約である。)