第四回 足利幕府と吉野朝廷との決戦前夜

尊氏、吉野方への対応の甘さを反省する

全国の武家勢力を束ねる将軍、足利尊氏には、正規の守護でもその配下の国人(以前の地頭)でもない、辺境の南河内・和泉の楠・和田等の、まだ世間知らずの若い領主達が率いる僅か二千の武装集団に、武家方の名将、山名時氏率いる精鋭騎馬軍団一万騎が見る影もなく敗北し、多数の名だたる武将達の命が奪われたことは、寝耳に水の衝撃だった。
思えば十一年前、兵庫湊川に破って自害に追い込んだ楠木正成の、今年二十二歳になった長男、正行(まさつら)こそが反乱の指揮者なのだ。確かに瀬戸の内海から兵庫和田の浜に上陸する折りに、蠅のようにしつこくつきまとう正成、(まさしげ)正季(まさすえ、和田家の婿に入った)兄弟が率いる数十騎の騎馬兵には悩まされた。しかしあの頃の楠木軍の主力は長柄の槍を使う歩兵だった。四百数十名の歩兵らは、会下山から和田岬に流れる湊川(往時は今より東側を流れていた)の川原に横一列、戸板を盾代わりに並べ、縄を何重にも張り巡らし、敵を一兵たりとも京には向かわせない構えだった。
「正成の死後、楠木家は楠家と改め、親類の和田家と共に騎馬兵中心の軍団に変身した。最早彼らは山城に籠城したりはしない。誰の差し金なのか。賢夫人と謳われた未亡人、久子の教育なのか。新田率いる三万の官軍を無事に京に戻したい一念で、後醍醐天皇から我が軍の兵庫上陸阻止を強要され、心ならずも官軍撤退を助ける盾にされ、無惨に玉砕させられた正成兄弟に同情し、正成の首は久子殿に返し、楠木家には東条、赤阪(今の河南町と千早赤阪村)の旧領を、和田家には和泉和田(岸和田)の旧領を安堵(領有の保証)してやれば、恩に感じて吾らに刃向かうことは無いだろうと思ったが、どうやらとんだお人好しだった。」と尊氏は呟いた。

吉野討伐の為の武家方の全国総動員令

「こうなれば国家安寧の為にも、吉野朝廷と彼らに踊らされる楠、和田一族をこの地上から根こそぎ消し去るしかない。」と、尊氏は幕府の総力を挙げて南朝の討伐軍を編成することにし、その大手(主力軍)の大将には、自らの執事役でもある、武蔵の守護、高師直(こうのもろなお)を任命し、配下に阿波の細川氏、駿河の今川氏、出雲の佐々木氏、近江の六角氏、美濃の土岐氏、安芸の武田氏、備前の松田氏らの軍勢に加えて関東と中国地方の国人(以前の地頭)衆を付けてやった。
又搦(からめ)手(敵の背面を衝く裏方の軍勢)の大将には、師直の弟、遠江(とおとうみ)守護、高師泰(こうのもろやす)を任命し、配下に赤松氏や厚東氏、長井氏、小早川氏、宇都宮氏などの軍勢を付けてやった。足利幕府の幕僚やそれを支える武将達、総掛かりでの陣構えである。この武家方(北朝方、幕府方)対宮方(南朝方、吉野方)の決戦に備えて、吉野方が集めうる兵の総数を最大一万と見積もり、全国から二十数カ国を選んで、足利将軍直々に宮方の五倍の兵の動員令が発せられた。正平二年(一三四七年)十一月二十八日のこと。

「忠臣蔵」に登場する高師直

 さてこの吉野打倒作戦の総大将、高師直という人物については、面白いエピソードがある。江戸時代から歌舞伎や人形浄瑠璃で演じられて来た竹田出雲の作になる「仮名手本忠臣蔵」の敵役は、往時を生きた武将の実名を使うのは憚られたので、吉良上野介ではなく、一昔前の太平記に登場する高師直になっている。赤穂四十七士の名も少しずつ変えられている。物語では才長けた美貌の妻に、上司の師直から手が付けられそうになった塩冶(えんや)判官が、怒りを抑えきれずに師直に対して刃傷に及び、幕府に切腹を命じられるところから物語が始まっている。塩冶の塩と赤穂藩名産の塩をかけているのだ。
これは以下の実話に基づいている。塩冶高貞は出雲の守護であったが、幕僚、師直配下の在京の武将であった。高貞の妻は美人と評判であったところ、上司の師直が横恋慕し、高貞から妻を奪おうとして失敗する。そこで腹いせに師直は塩冶一族を謀反人に仕立てるのである。生命の危険を感じて高貞と妻は別路で故郷の出雲に逃亡を計った。ところが即座に師直の兵に追いつかれた妻は二人の息子と共に自害した。妻子の訃報に接した高貞も後を追って自害したのだ。六年前の、一三四一年三月のこと。
兄が兄なら弟も弟である。京の町に自らの別荘を建てるため、名門菅原氏の墓所を暴いて屍を遺棄した。世の人がその暴虐にあきれて嘲る趣旨の狂歌を立て札にすれば、腹いせに墓所の主の菅原在登のみならず、年若い息子までを斬殺した。残された菅原氏の家人達は別荘造りの人夫にされ、過酷に使われた。通りすがりにそれを咎めた大納言家の家臣達まで捕らえられ、人夫として使われたという。
この兄弟は歴史が示す通り、社寺霊廟を毀壊(きかい)し、放火することに何の罪意識も持たなかった。徳の無い人間が大将になったものだと尊氏の不明を嘆く、心ある武将もいた。戦記小説「楠正行」の作者、田中俊資(としすけ 元関東軍参謀)氏も言うように、やがてそれが足利氏の権威を失墜させ、後年謀反者を続出させる(三年後に始まる観応の擾乱を指す)遠因となるのである。

正行、六万寺往生院から敵情を視察する

翌十一月二十九日、正行は楠・和の諸将を楠の館に招集した。和田からは行忠(ゆきただ)、賢秀(さかひで、出家姿となってケンシュウとも名乗った)、正武(まさたけ)、助氏の諸将、楠からは大塚惟正(これまさ)、橋本正茂、それに正行兄弟の正時、正儀(まさのり)達が集まった。
翌朝軍議の決議を受けて、敵情偵察の為、楠勢の一部が東高野街道を北に六万寺往生院(おうじょういん)の前哨陣地並びに天王寺方面に向かって出発した。三十日には楠軍の大将、正行が往生院の陣に入った。
十二月一日、吉野において後村上帝の御前にて、興良(おきなが 建武の中興の戦功によって一時は征夷大将軍にもなったが、後醍醐帝が足利氏に妥協されたことで、反逆者の汚名を着せられ、捕縛されて流された鎌倉が北条氏残党に攻め込まれ、混乱する中、足利直義の命によって土牢の中で斬首された護良親王の忘れ形見)親王、北畠親房、洞院実世(とういんさねよ)、四条隆資(たかすけ)、藤原教基(のりもと)らが参列し、軍議が開かれた。
この時、四条隆資を通じて、敵方の準備が整う前に京の都を奇襲しようとの正行の提案が伝えられるも、北畠親房卿が強く反対して否決された。
しかし十二月に入ると京の町では毎晩どこかで火の手が上がった。総ては何者かによって放火されたものである。しかも火元は総て武家屋敷であった。
十二月十日、北朝方の兵の集まりは鈍かった。この時点で集まった兵はまだ一万五千。総大将、師直は五千を京の護りに残し、自らは五千の兵を率いて男山八幡に集結し、弟師泰にも五千の兵をつけて十四日には淀に集結させ、その配下に渡辺橋南岸まで進出させて、そこにいた楠の斥候兵らを追い返すのに成功した。その数日後には男山の師直の陣営も、淀の師泰の陣営も二倍三倍の兵に膨れあがっていた。

御前会議に参列し、戦死を覚悟する正行

十二月十五日、正行に、吉野への参上を促す命令が届く。翌十六日早朝、正行一行は吉野に向けて出発した。従う者、正時、惟正、行忠、賢秀、助氏の五将と郎党総勢二十数名。一行は下市に一泊し、翌十八日、未明の内に出発し、午前中には吉野山に達し、衣服を改め、行在所の門を潜った。
後村上帝の御前での軍議の中で、集められる味方は敵兵の五分の一の九千名であることが確認された。本営は巻尾山に置き、この度後村上帝から征夷大将軍に任じられた興良親王が兵一千を率いて布陣すること、楠・和田軍二千の中央隊は東高野街道を東条向けて南下する師直の大手部隊と対峙し、中河内辺りで一撃を加えること、左翼は北畠親房が指揮し、一千の兵で敵の搦手の師泰の軍と対峙すること、そして右翼部隊の四条隆資は紀伊、南大和の兵ら四千を宇智郡(今の五条市辺り)に集結させ、大和を北上し、生駒山系から西麓の東高野街道を南下する敵の主力部隊を牽制することが決まった。
しかしこれらの戦いはあくまでも、敵の本隊を勝利感に酔わせて味方が地の利を得る吉野山麓に引き込む前哨戦であることは軍議の出席者全員が理解するところだった。だがその為には、この前哨戦で誰かが敵の本隊に惨敗しなければならない。それが楠一族の使命なのだと、正行は既に自らの死を覚悟していた。
軍議が終わると正行一行は先帝の陵を参拝し、付近の如意輪堂を訪れ、壁板を過去帳として彼らの名前を書き記し、最後に正行が辞世の歌を認めたとなっている。

 現在の如意輪寺博物館には正行の歌が彫りきざまれた戸板の断片が陳列されている。つまり筆で記したのではなく、矢尻で板に彫り刻んだというのだ。
伝わる正行の辞世の歌、

返らじと かねて思えば 梓弓
亡き数に入る名をぞ止むる

(放たれた矢のように決戦場に臨めば生きて帰ろうとは思わない。玉砕を決意する全員の名をここに記す。)

正行の辞世の歌に関する太平記の記述や陳列品には異論がある。それについては紙面の都合にて次回に語ろう。