第四回 宇治川の対陣

大塔宮様、反逆者として捕縛される

鎌倉の北条氏に集権する守護地頭体制が打倒され、後醍醐天皇による「建武中興」と言われる行政改革が始まったのだが、共に戦勝貢献者でありながら、大塔宮護良親王と足利一族は、二派に分かれて権力闘争に明け暮れていた。両派は互いに他方を圧倒しようと味方集めに奔走したが、宮様に呼応して蜂起した播磨の赤松も恩賞の不満から足利方に走り、また宮様とともに戦った楠木さえも乱世に戻るのを恐れて中立の立場をとったので、宮様は次第に孤立無援となられた。

一三三四年、建武元年十一月、大塔宮護良親王は、足利尊氏との政争に遂に破れるや、倒幕の大功で得た征夷大将軍職は剥奪され、謀反人の罪を着せられ、鎌倉に配流(はいる)の身となられた。しかも宮様が武術に秀でられたのが災いしたか、尊氏の弟、鎌倉将軍府の責任者、足利直義(ただよし)は宮様を独断で土牢に幽閉したのである。半年もすれば、その足は鳥の脚の如く細くなり、立ち上がることも困難だったという。だが宮様にはお気の毒でも、国民の多くはこれで天下の泰平が保たれたと安心したのである。まさかこのことから因果が連鎖して、自分たちが真二つに分かれ、それぞれが別の天皇を擁し、しかも世代を超えての長き年月を相争い合う動乱になろうとは、天のみが知ることであった。

天皇、官軍を招集し、足利打倒を命じられる

その翌年、信濃の諏訪一族が北条高時の遺児を擁して、足利直義による東国支配に反旗を翻し、南関東を制圧するや、鎌倉に大挙して侵入する事件が起きた。これを中先代の乱と呼ぶ。尊氏はすぐさま京から東海にとって返し、鎌倉から落ちてきた直義と合流して反撃を開始し、遂に反乱軍を打破し、鎌倉を奪還した。だがこの時、直義は戦のどさくさに紛れ、大塔の宮様のお命を頂戴していたことを兄尊氏には言いそびれていた。だが、お世話役として宮様にお供した女が命からがら京に戻ったので、事件から四ヶ月の時は経ってはいたが、尊氏よりも早く、天皇が宮様のご最期をお知りになることとなった。
烈火の如くお怒りになった天皇は、尊氏と並ぶ源氏の棟梁(とうりょう)、新田義貞(よしさだ)を総大将とし、第一皇子の尊良親王とともに配下に六万の軍勢を付けてやって、足利攻めをお命じになった。この時、錦の御旗を賜ったと記録にある。浅学ではあるが、錦の御旗を掲げる史上初の官軍ではなかったか。「日の丸」のデザインを考案されたのは後醍醐天皇だと聞かされたことがある。であれば、この錦旗こそ、今の日章旗に近いものだったのかもしれない。日章旗は以後しばらく南朝方の軍旗となり、それが幕末になると、なぜか遣米使節を乗せる咸臨丸の国章となり、続いて戊辰戦争では明治薩長政府に抵抗する東北諸藩を束ねる軍旗となったというから、日章旗を掲げる戦を思い起こせば、果たして勝ち戦と負け戦のどちらが多かったのか、とつい気になるところである。
さて天皇は、新田義貞だけでは安心されなかったか、陸奥の国に赴任していた北畠親房(ちかふさ)、顕家(あきいえ)父子にも蝦夷(えみし 東北人)の大軍を率いて関東に南下し、官軍と共に足利を挟み撃ちにせよとお命じになっていた。

足利尊氏、宇治川を渡河して京に進駐する

そもそも東海地方は、石塔、今川、吉良など足利親族が領する地域であって、いかに官軍に大義がある戦であっても、最期には地の利を知り尽くした者が勝利するのは、両軍の決戦を待たずとも明らかであった。だからこそ天皇は北畠軍に援軍を求められたのだ。だが戦功を焦る義貞は、北畠顕家が10万の蝦夷の兵を率いて今まさに南関東に迫っていたというのに、その到着を待たずして、一三三五年十二月、箱根山中竹の下で決戦を仕掛けてしまった。結果は官軍側から寝返る者が続出し、尊氏側の大勝利に終わった。
年が明け、京の市民には悪夢の様な正月が始まった。敗走する官軍を追い、足利の大軍が東海道をひたおしに攻め上ってくるという噂を聞いて、家財をまとめて逃げ出す人、馬、荷車の列で京から四方に通ずる街道の総てがごったがえし、往来に舞い上がる粉塵は街の空を幾日も覆ったほどである。天皇も公家達を伴い、叡山に玉体を移されることになった。
畿内に逃げ戻った義貞は皇都を戦場にしては恐れ多いと、名和、千種勢に瀬田を護らせ、楠木勢には宇治橋を固めさせ、自らは官軍の敗残兵を集めて山崎、淀あたりで陣を張って、この地で足利の大軍を待ち受けようとした。これで足利の攻勢を抑えられると義貞は思っていなかったが、足利軍を追って無傷の北畠の大軍が東海道を西に進んで来るのを待っていたのだ。だが義貞軍は足利を迎え撃つべく、鶴翼に拡げた陣の背後から赤松勢や四国の細川勢の攻撃を受け、たちまちにして足利軍の本体と戦うどころではなくなった。
その頃、足利尊氏は十万に膨れあがった兵を率いて鈴鹿を越え、近江に入るや瀬田から宇治川沿いに進んで、遂に京の入り口、宇治橋に到着し、川を挟んで楠木勢とにらみ合った。尊氏は正成との正面衝突を避け、平等院に火を放って、信仰に篤い正成が戦う前に寺院の消火を部下に命じるのを確かめ、宇治橋を無理に渡らず、南に迂回し、淀の大渡り辺りにて兵を渡河させ、京に進駐した。この時、平等院はかろうじて鳳凰堂だけが消失を免れるという有様であったという。

次回の予告 「京を睨む風林火山の軍旗」
南北朝の時代に、武田信玄よりも早く孫子の「風林火山」の軍旗を掲げて大軍を率いる若武者がいたことをご存じでしょうか