第一回 赤阪城、1331年秋
王権復興を願う後醍醐天皇
河内と呼ばれる大阪平野の東半分に、大昔の河内湾の名残である深野(ふこの)池、新開池の両池が中央を占拠し、その周辺にも湿地が広がって、南北に行き交うにも湿地帯を迂回し、信貴生駒の山麓を連なる東高野街道を行くしかなかった中世の時代である。
万世一系の皇統が鎌倉中期になって御深草天皇の「持明院統(じみょういんとう)」と、亀山天皇の「大覚寺統」とに分流し、以後は互いの皇統から交替しながらご即位いただくこととなった。しかもその交替にまで何かと幕府が口出しすることになり、源頼朝が開いた鎌倉幕府に国の統治権を奪われたことに増して皇室の権威の凋落に拍車をかけた。
このような風潮を嘆き、京では王権を復興する実力ある天皇の登場を求める気運が起こった。飾り物に過ぎなかった幼年の天皇が続く中、一三一八年、大覚寺統から珍しく成人の後醍醐天皇が即位なされた。天皇は即位三年後に、二百数十年もの間続いてきた「院政」を廃止された。
天皇親政への道を開く「歩」が打たれた訳である。 平家滅亡以来、太平が続いた御蔭で京の街は一大消費都市として発展した。朝廷の権威が及ぶ畿内に限ってではあるが、天皇は行政改革を粛々と断行された。商取引に介入する寺社の特権を笠に着た寺人(じにん)たちの行動を規制し、自由な商いを促進なさろうと関所の殆どを撤廃された。結果、京の街は経済力において再び鎌倉を凌ぎ、我が国の中心地に復権するかのようであった。台頭する非農民や新興勢力を擁護なさる朝廷は、やがては旧態然たる荘園領主とその元締めである鎌倉幕府と対立なさることに。ご即位から十二年後にして、天皇は遂に倒幕を決意なされた。
近習の日野資朝(ひのすけとも)には、坂東でこれはと選んだ御家人の処へ幕府から離反させる工作に向かわせ、日野俊基(ひのとしもと)には、倒幕の決起を促すために幕府に反感を持つ西日本の新興勢力、海賊、野伏、山伏たちの処にお遣わしになった。だが資朝(すけとも)卿は関東に入るなり捕縛され、佐渡に配流となってしまわれた。この二人の卿は後醍醐天皇の朱子学のご学友であった。儒教が重視した「仁」や「孝」といった親や年長者への尊敬や思いやりよりも、世は移って封建社会に相応しい価値観たる、主人への絶対的服従理念に繋がる「忠」や「義」を尊ぶ朱子学が蔓延(はびこ)る時代になりつつあったのだ。
新興勢力、南河内の楠木氏
東高野街道を南下し、富田(後の富田林)あたりで千早街道に道を変え、石川を渡河して東条川(今の千早川)を遡ること一里、そこには葛城山が東に連なり、金剛山が南に聳え、金胎寺山が西に見え、三方山に囲まれる谷地の、楠木氏が支配する往時は東条(現在 の千早赤阪村)と呼ばれた僻地の静かな山村がある。
幕府に忠勤を励む坂東の武家の楠木氏が、鎌倉中期に西日本に流れ、その果てに河内東条の地侍になった事情は不明である。赤阪(千早赤阪村森屋付近。太平記では赤坂だが、当地での表記を採用する)の丘陵の上に広大な屋敷を構え、代々才覚ある主が続き、南河内の水利権を差配する力を得たとか、水銀を掘って一財産作ったとか、荘園間の争いに好んで調停役に入ったとか、淀川付近まで進出して商品輸送の警護を業としたとか、様々に伝えられるが真相は不明である。いずれにせよ楠木家は武家としての誉れよりも、実利を優先する実業家として頭角を現したようである。
よって楠木家(正成死後は木がとれて楠家となる。正成嫡男は楠正行と表記する。子孫には楠本家や和田家などがある。 )は、必然的に時代が生んだ非農業就労者を多数抱えることになった
彼らは荘園に属せぬハミダシ者と蔑視され、新興勢力を頼ったと言う。「荘園」に属せぬ非農民や浮浪者がたむろする場所は「散所(さんじょ)」と呼ばれ、そこに属する集団は差別され、楠木一族もそのような一団だったとする説もある。しかし東条が散所などと呼ばれた記録はない。確かに守護地頭体制に組み込まれた荘園ではなかったが、東条は非農民や浮浪者を抱えながらも、あくまで農業生産を主体とした荘園には違いなかった。ただし体制からはみ出た集団という意味で、楠木一族が世間から、法を無視してでも私利を優先する「悪党」呼ばわりされたのは事実である。
正成(まさしげ)の代になって専業農民ではない浮浪者のような者たちを集めて胴丸を付けさせ、薙刀(なぎなた)や槍を持たせたので、荘園勢力から自衛するための武装集団化が進んだ。後の戦国時代に歩兵の主力武器となる「槍」を、中国(元朝)から輸入してはそれを真似て量産し、最初に集団で実戦に用いたのは正成だったと言われている。
尊皇思想家、日野俊基
やがて朱子学によって王政復古を焚き付けて歩く日野俊基(ひのとしもと)卿と、楠木正成との運命の出会いの日がやってくる。正成には、むさ苦しい山村に何用あって天朝様の御使者が来られたかと訝(いぶか)しく思っただろう。だが雲上からの御使者を、世間から悪党などと蔑まれる楠木家にお迎えすることは、この上ない誉れに違いなかった。
そんな思いの楠木一族から熱烈に歓迎され、俊基卿は上機嫌となり、気を許して倒幕の計画を口にされただろう。正成はそこで顔を曇らせた。いかに幕府への不満が高まろうが、全国の武家階級を束ね、社会の秩序そのものである幕府に謀叛せよとは何たることか、先程まで有り難いと思ったお使者が、急に有り難迷惑な来訪者に見えた。臣が無私となって君主に生命を捧げる尊さを俊基卿はこんこんと説く。褒美や領地のために生命を投げ出せと言うのではない。天下を牛耳る武家階級がそんな損得勘定でいるから、今日このような乱れた世となったのだ。だからこそ、この乱れた国を我々が正さなければならないのだ。いかに死ぬかで人間はかえって自らの生命を磨き、人生を完成するのだと。だが正成は、俊基卿がどれほどの人物なのかも判断できず、又卿がいかに正論を主張されようが、失礼ながら幕府を転覆させる力があろうとは信じられず、その口上には頷くものの、挙兵計画については口に出せず、期が熟すればと口を濁しながら、卿には鄭重にお帰り願うしかなかった。
元弘の変
だが京に戻られた俊基卿は、天皇側近の密告によって幕府の出先機関、六波羅探題によって御所に参内するところを捕らえられ、そのまま鎌倉に配流となられた。一三三一年の元弘の変の始まりである。八月、身の危険を感じられた天皇は慌ただしく京を脱出され、笠置山に登られ、お味方する勢力に緊急の召集を掛けられた。
正成は単身で馳せ参じ、この地で幕府軍と戦うことの不利を説き、楠木勢は自領にて決起するつもりだからと、ここに一族を連れ来る考えのないことを言上して天皇においとました。帰国した後、直ちに赤阪城にて倒幕の旗を掲げる。驚いた幕府は板東の各地から大軍を上洛させ、後醍醐天皇は廃帝にし、新たに持明院統から光厳天皇にご即位を願った。
正成の挙兵空しく、翌月には後醍醐天皇があえなく捕らわれてしまわれた。赤阪城の正成には最早戦う意味がなくなった。戦の収拾を図ろうとするところへ、護国仏教の頂点に立つ天台座主(てんだいざす)の名誉な職を勝手に辞して、天下の動向を観察、分析するため、ここしばらく下山したまま姿を眩まされていた三の宮、尊雲法親王(還俗後の大塔宮護良親王)様が、敵の囲みを破って赤阪城に入って来られた。
倒幕運動の指揮者であるため、お尋ね者の三の宮様が楠木の城におられることは、幕府軍の知ることとなり、赤阪城に十万に迫る大軍を招く結果となった。戦を収拾するどころか、一族全員玉砕の畏れがふと正成の脳裏を掠めた。正成にはそんなつもりはさらさらない。堀も石垣もなく逆茂木が囲むだけの砦を、楠木勢は矢が尽きれば石を投げ、柄杓で熱湯を敵兵に浴びせたりして二ヶ月持ちこたえた。一族の生命を助けるには、親王様がこの地から遠くにお移りいただき、この正成の首を差し出すしかない。
十月、正成は宮様を夜陰に紛れて脱出させ、金剛山を越えられ、神武以来皇室贔屓(ひいき)の吉野に落ちられるよう宮様にお勧めした。そして身体格好が自分に似た戦死者の遺骸に自らの鎧甲を着せ、館もろとも火を放った。
怪しげな公家に騙され、とんでもないことに荷担したと嘆いて主人が自殺したと家人たちには吹聴させた。幕府軍は、拾えばぼろぼろと崩れるほどに焼けた正成と思しき髑髏を接収し、包囲網を解いて降伏した家人たちに構うことなく、吉野に逃げた親王を追った。
死んだことになった正成は深い山中で隠棲することになる。じっと息を潜めながら、とんだことに関わって自分の人生は終わってしまった、とため息ついたかどうかは知らない。だがこの戦いが自分を歴史の檜舞台に立たせるほんの序章に過ぎなかったとは、正成すら知るよしもなかった。楠木家本城の赤阪城は全焼し、その地に城や屋敷が再建されることは二度となかった。今はその丘陵に村営、千早赤阪中学校が建っている。(完)
次回の予告 第二回 千早城、1332年冬から1333年春へ