第五回 京を睨む風林火山の旗

二つの皇統の不和が始まる

太平記の時代とは我が国の皇室が分裂した南北朝時代をさすが、鎌倉時代の中期には既に皇統は二つに分かれていた。後深草天皇が弟君の亀山天皇に譲位され、亀山天皇がご実子の後宇多天皇に譲位された時、突如鎌倉幕府が干渉し、後深草のご実子を皇太子にしたことから皇統が二分したのだ。以後、兄の後深草の直系を持明院統と呼び、弟の亀山の直系を大覚寺統と呼ぶことに。但し両皇統は交互に即位されたので、表だって対立はなかった。しかしこのままでは、畏怖され尊敬されるべき「天皇」が、いつの日か、武家に操られる権威の無いものになりかねない。昔日の様に王権を復興し、公家、武家を共に支配したいと野心のある天皇がいつ現れてもおかしくはなかった。
そこに登場されたのが、大覚寺統の後醍醐天皇である。後醍醐天皇はかつて笠置山に籠もって幕府に反旗を翻されたものの、あえなく捕縛され、天皇の御位も剥奪され、隠岐へ流島処分となられた。一年後、足利尊氏、新田義貞、楠木正成、赤松円心、名和長年らが北条氏を裏切って天皇にお味方したので、劣勢を挽回され、幕府を滅ぼして都に戻られるまでの短い期間、北条に推されて御位に在ったのが持明院統の光厳天皇である。天皇に返り咲かれた後醍醐は二度目の即位であるから、旧来の慣習なら天皇の呼び名も改めるべきであったが、光厳天皇の在位そのものを無かったことにして済まされたので、持明院統側の誇りを大層傷つけることになった。二つの皇統が不和になっていくのは、後醍醐天皇のこうした持明院統への配慮の無さから始まったのではなかったか。

尊氏、天皇不在の皇居を焼き払う

建武政府への反逆者として流罪になったとは言え、朝廷の許しもなく大塔宮を処刑した足利尊氏、直義(ただよし)兄弟を懲らしめる為、錦の御旗を掲げる官軍を率いて関東に下った新田義貞であったが、逆に箱根で敵軍に大敗し、東海道を逃げ帰ることになった。彼らを追って畿内に攻め上った足利軍は大軍に膨れあがり、山崎から淀辺りで尊氏を待ち伏せする官軍の残党たちを、四国や播磨から呼び寄せた細川軍、赤松軍にあしらわせている間に難なく京に入った。足利尊氏は全国の武家を束ねるお墨付き(征夷大将軍職)が欲しい為、天皇との和睦を第一と考え、もしも大塔宮殺害の罪が許されるのなら、下手人、弟直義の首を差し出しても良いなどと、欺瞞の策なのか、それとも懺悔の本心なのか、分からぬことを吹聴しながらの京入城であったが、既に交渉相手の天皇は正成の意見を容れて皇族を引き連れ、叡山に逃げられた後であったから、彼の願望成就は露と消えた。落胆した尊氏は怒りにまかせて住む人のない皇居を焼き払うよう命じるのだった。不思議なことに足利軍はその後も用も無くなった筈の京に駐屯し続けた。実は尊氏は赤松円心などに入れ知恵され、天皇との交渉に見切りを付け、自分を武家の棟梁として公認してくれる別の皇族との交渉を企てていたのである。

北畠の「風林火山」の軍旗

皇居が炎上する頃、足利軍を追って鈴鹿を越え、近江に入ったのは、北畠顕家(あきいえ)卿が率いる数万の蝦夷(えみし 往時の東北人の呼称)の大軍であった。北畠氏とは村上天皇を祖先にする名門の公家で、久我の領主とも、伊勢の国司とも言われる。古代中国の兵法家、孫子(そんし)は、軍隊の理想像を「その疾(はや)きこと風の如く、その徐(しずか)なること林の如し、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し」と諭した。武田信玄の軍旗でも有名な「風林火山」の四句である。信玄の時代から二百年前、この軍旗を翳(かざ)し、赴任先の陸奥多賀城を出発して以来、行く手を阻む足利方の諸将を次々に破って、京までの長途を火の如く進軍したのが、往時まだ十代の若武者、北畠顕家であった。大阪の高級住宅地、北畠の地名は、二十一歳の若き命を戦場に散らしたこの顕家卿の墓が付近にあることに由来する。北畠軍が「風林火山」を軍旗にしたのは、後に天皇家の系譜を説いた「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」を著す程の学識豊かな父、親房(ちかふさ)卿の発案であったに違いない。それを二百年後、再び武田軍が使用したのは、信玄が親房に劣らぬ兵法書「孫子」の愛読者であって、かつまた北畠顕家のファンでもあったのではないだろうか。そう言えば、武田家の家紋も、北畠家の家紋も同じ「割菱」紋である。
北畠軍は愛知川に到着するや、出来る限りの舟を借り集め、三日三晩琵琶湖をピストンして対岸の坂本に全軍を渡航させた。叡山でじっとしておられず、後醍醐天皇が坂本まで下山して北畠父子の到着を待っておられたのだ。日吉大社が官軍の総本陣とされ、直ちに新田、楠木などの諸将が集められ、御前での軍議が開かれた。新田軍からは足利軍を無傷で京に入城させた楠木勢を糾弾する声が上がった。だがそれを一蹴するように顕家卿は、足利の大軍を京に入れたのは見事な策だと、逆に正成を褒めちぎったのだ。京は大消費都市であっても、それを賄う大生産都市ではない。よって市民の食糧、日用品の殆どは、周辺地域から賄わなければならない。足利の大軍を京の市中に閉じこめ、四方の出入り口を固めて物資の流入を止めれば、やがては兵糧が尽きて外に逃げ出さなければならない。それを待って敵を討てば、味方は損害軽微にして多大な戦果が得られる筈だ、と顕家卿は力説した。しかし新田軍から、陸奥からの長途の旅で、さぞお疲れではあろうが、兵馬は一旦休ませれば使いものにならぬ、と揶揄(やゆ)され、仕方なく顕家卿も正成も、三井寺方面に押し出してきた足利軍を直ちに叩くことに同意せざるを得なかった。足利軍は出鼻を挫かれ、京の市中へと退却した。

正成、尊氏の京に駐屯し続ける理由に気づく

官軍は深追いせず、京に敵軍を追い込み、四方から包囲する形で陣を張った。後は敵の兵糧が尽きるのを待つのみである。正成は叡山西麓の修学院に陣を張り、足利軍の動きを監視した。そこに思いがけない情報が飛び込んできた。怪しげな者が尊氏の陣と叡山延暦寺との間を頻繁に行き来していると言うのだ。天皇は坂本におられるのに、何用あって延暦寺なのか?と正成は首を傾げた。すると足利軍の雑兵達が、まもなく足利が官軍(国軍)となり、新田が賊軍(朝敵)となるのだ、と吹聴しているのが伝わってきた。正成は、戦を恐れ、今叡山に身を隠される御方の名を思い出し、尊氏が兵糧枯渇の危険を冒しても、大軍を京に駐屯し続ける理由に初めて気づいて顔色を失った。
「しまった、敵の交渉相手は光厳上皇様なのじゃ。天皇と不仲の上皇様から、院宣(いんぜん)を賜って幕府を興し、新田に組みする武将達を朝敵にする考えじゃ。それでは永遠に収拾のつかない大乱となろう。そんな身勝手な陰謀を許す訳には行かない。」
正成には己の推理を確かめる術も、味方に己の直感を説明する時間も無かった。ことは一刻を争う。上皇様の院宣が尊氏側の手に渡れば、最早どうにもならなくなるのだ。正成は馬に鞭当て、軍令を破って尊氏の本陣目指して駆けだした。部下の兵達も事情が分からぬまま主の後を追った。するとそれまで静まりかえっていた新田の陣や北畠の陣から、楠木の抜け駆けは許すまい、と堰を切ったように四方八方から市中に突入したのだ。足利軍は完全に不意を突かれ、京は全域が大混乱となった。
次回の予告 「桜井駅の別れ」

「青葉繁れる桜井の・・・」の唱歌でもお馴染みの、「太平記」の中で有名な感動シーンですが、今日ではその記述に囚われず、様々な資料や文献の研究がなされ、この楠木父子の涙の別れは、どうやら一大虚構であったと分かって来ました。では兵庫の戦場に急ぐ正成が何故、西国街道桜井の駅に営泊したのか、その真相に迫ることにいたしましょう。