第六回 桜井の別れ

尊氏、遂に足利家を武家の棟梁と認める院宣を入手

一三三六年、五月(現在の太陽暦では六月)、京の公家(くげ)達は顔色を失い、ただただ慌てふためくしかなかった。正月の官軍の大勝利の後、西海に敗走したはずの足利尊氏(たかうじ)が、思いのほか早く九州で勢力を挽回し、既に前月には弟の直義(ただよし)に数万の兵を預けて山陽道を京に向けて出発させ、自らも大船団率いて海上を出発し、間もなく兵庫で水陸両軍が合流し、一気に京に攻め上ろうとしているとの知らせが入ったからである。
先の戦で宮方勝利に貢献した北畠顕家(あきいえ)率いる奥州軍は、既に故郷の多賀城に帰還した後だった。敗走した尊氏の後を追い、九州を目指した筈の新田義貞(よしさだ)率いる三万の官軍は、手始めに播磨の赤松を懲らしめようと始めた白旗城の包囲戦が、思わぬ籠城側の抵抗にあって長く釘付けとなっていたのだ。今京にいる宮方の軍勢と言えば僅か千名余りの楠木勢だけである。天皇は義貞率いる官軍に直ちに京に戻れとの命令を下された。

陸上から、海上から、これほどの一大軍事デモを見せる尊氏の目的とは何だろう。京の包囲戦のとき、楠木、北畠、新田の連合軍に不意を突かれて足利軍は総崩れとなった。京での長滞陣の理由だった「新田の与党を討ち、天下を平定せよ」と命じる、光厳上皇様の院宣(いんぜん)、即ち「足利家を武家の棟梁(とうりょう)と認めるお墨付き」を得るのを尊氏、直義らは一旦諦め、多数の味方を失いながら、京に近い足利領地、西の丹波篠村(今の亀岡市)をさして退却した。院宣を携えた使者が遂に上皇様の元を出立し、西国街道を西に向かった、との情報を得ると、篠村を出発し、六甲山東麓を南下し、使者を迎えるため西宮に進出した。だがそこでも待ち伏せしていた楠木勢の手痛い攻撃を受け、大内水軍の助けを借りてほうほうの体で瀬戸内海に逃げ出さねばならなかった。

だが気まぐれな幸運の女神は、今度は絶望の淵にある尊氏に微笑んだのだ。歴史のその瞬間(とき)ともなる二月十四日、尊氏が全軍を室の津(兵庫県たつの市)に集結させ、足利再興の方策を練る軍議を行っていたときに、なんと上皇様の使者が、入手を諦めていた院宣を携え、尊氏の陣にたどり着かれたのだ。吉川英治の名作「私本太平記」のクライマックスシーンでもある。後は天皇が自らの敗北を認められ、尊氏に将軍宣下があれば目的を達することができるのだ。そのためには新田などに比べ足利の圧倒的優位を世に示すしかない。将軍になる切符を手にしながらも尊氏は京には返さず、一旦は九州に落ち、体制を挽回することにしたのである。

後醍醐天皇の政治改革に不満を募らせる世論

足利尊氏は後日京に幕府を開くのだが、思うにその時、次のように述懐したのではなかったか。もし九州から京に攻め上ったあの時に、建武中興の行き詰まりを陛下が自らの失政と反省され、敗北を素直に認められていたのなら、楠木正成も、新田義貞も、北畠顕家も、むざむざ命を落とさずに済んだものを、と。
確かに鎌倉時代末期、貨幣経済の発達とともに封建制度を支える荘園社会からはみ出す集団が多数誕生し、武家たちが生計の拠り所とした農業集団の政治的優位を壊して、新しい時代に適う体制を望んだのは、後醍醐天皇だけではなく、時代の変化を膚で感ずる国民の総意だったと言うべきだ。

だが建武の政治改革が始まって見れば、国民の目には世が前進するどころか、逆に古代の律令社会に戻るかに見えたのだ。「いくら鎌倉幕府を倒そうが、最早公家が支配する大昔に戻れる筈もなかろうに」と尊氏は苦笑した。経済の発展は国民の物欲を覚醒させる。突き詰めて言えば、国民の不満は常に富の分配の不公平から来るのだ。
「武家や庶民の不満を鎮めるために力ずくで富を再分配できるのは、日本全国を見回してもこの尊氏しかいないではないか。だから最強の武将が将軍となり、安定した武家社会になるのを望むのは、何も足利与党の武将ばかりでなく、それが庶民の、否、天の声だったのだ」と尊氏は一人つぶやいた。

「太平記」とは対局的に室町幕府側から記述された歴史書「梅松論」によれば、宮方にいながら、このような空気をよく読んでいたのが正成だったと、だからこそ正成が誰よりも天皇と尊氏の話し合いによる解決、即ちもしも天皇がご納得の上で平和的に行われるならば、足利氏に幕府を開かせることを容認していた、となっている。

正成に兵庫出陣の命が下る

一方播磨の赤松氏を攻めていた新田義貞は、朝廷の退却命令を受ける前に、足利直義の何万という大軍が赤穂に迫っていることに気づき、直ちに城攻めを取りやめ、東に退却しながら、足利軍との決戦場所を求めていた。
ところが直義に遅れて出立した尊氏率いる水軍が、海上から味方を追い越し、退却する官軍からも先陣の軍船の影が遠望されるようになったときに、敵の水軍が先回りして兵庫に上陸すれば、この官軍三万の兵を前後から挟み撃ちにして殲滅(せんめつ)できるのだ、と義貞気づいて愕然(がくぜん)となった。
挟み撃ちに会うのを避け、官軍が足利軍と対等に決戦を挑むには、敵が上陸するその前に官軍は兵庫を駆け抜けておかなければならなかった。義貞は行く手を阻む前方の須磨の隘路(あいろ)を、苦虫噛むように睨(にら)みつけるのだった。

朝議の結果、京の警護にあたっていた正成以下、楠木兵千名の者たちに、直ちに兵庫に出陣するよう命令が出た。正成の進言も空しく、天皇は尊氏との話し合いには応じられなかった。天皇に建武の政治改革への不満の声が届かなかった訳ではない。ただ天皇には国民の多数意見を無視してでも、物欲にまみれた国民の多数が忘れ去った、神武建国以来の日本国体の理念を自分後醍醐が守らずして誰が守るのだ、という強い使命感をお持ちだった。即ちそれこそが、大乗仏教や、儒教から発展した朱子学や、我が国古来の神道など、総ての宗教や哲学が共通して説くところの「中(みなか)」への帰依だった。
だからと言って多くの人が考えるように、このとき後醍醐天皇が正成に「兵庫にて義貞と共に足利と決戦せよ」と命じられたとは、筆者には到底信じ難いのだ。何故なら尊氏の意図が、本当に宮方の武将たちを皆殺しにしたいのかを確認できない状況で、味方の兵を大きく損なうだけの、足利の大軍に正面切って総攻撃を挑むことに、どんなメリットがあるだろうと疑問に思うからである。

天皇は官軍を無傷で京に呼び戻した上で時間を稼がれ、奥州の北畠に再度上京させるべきではなかったか。数には数で対抗し、天皇には尊氏の幕府樹立の野望を絶対に粉砕しなければならなかった筈なのだ。筆者思うに、正成への命令は、僅か千名の楠木軍などいかに犠牲者を出そうが、足利水軍の上陸を自ら楯となって水際で抑止し、その間に三万の官軍を無傷で京へ戻せ、というものであったのでは、と。

正成、観心寺住職に楠木家の後事を託す

五月二十二日、蒸し暑い曇天の梅雨空の下、楠木勢千名は京を立ち、西国街道を一路兵庫へと進んだ。急ぐ出征ではあったが、正成は摂津の国に入るや、西国街道から桂川、淀川を渡って南に進む東高野街道が分岐する桜井の駅(三島郡島本町)に宿営した。
その夜正成は、「この戦には、これほどの人数は要らぬ」と年若き者五百名ばかりを選び、「夜が明けたら南河内に帰れ」と厳命したと言われる。兵庫に赴く者は誰一人生きて帰れぬ、と予感する正成なら、全員を道連れにするのは忍びなかっただろうと想像できる。確かに兵庫に赴く楠木兵の殆どが生還できなかった。

「太平記」によれば、正成が桜井から帰した者の中に長男の正行(まさつら)がいた。正成が嫡男と別れを惜しむために、街道の分岐点で宿営したことになっている。この楠木父子の別れの場面が「太平記」では一番の感涙シーンだ。
「既に父は討死を覚悟せり、いつの日か忠君の(天皇に忠誠を尽くす)志を継いで賊を討て、それが何よりの親孝行ぞ」と正成が嫡男を諭す場面である。また戦前、多数の国民から愛唱された、明治の国文学者、落合直文の詞による「大楠公」(だいなんこう 正成の尊称)も、このエピソードを哀傷の感込めて歌っている。

ところが、現代になって南河内、観心寺の住職、瀧覚(りゅうかく)の日記を証拠に、この夜、正成と瀧覚が桜井の駅で会っていた、とする説が唱えられるようになった。正成がわざわざ桜井に宿営したのは故郷の菩提寺住職との待ち合わせだった、とする説は、筆者には「太平記」の涙のロマンよりも遙かに合理的で説得力がある。
初めは楠木兵が足利軍に玉砕戦を挑む自殺願望の作戦ではなかったと筆者は思っている。それはそれとしても、この戦最終的には官軍側が敗れるものと正成が予想していたことに違いない。だからこそ正成は自分の生還の確率が、これまでとは比較にならないほど低いことも知っていただろう。
であれば「勅命とは言え、新将軍とは正面切って争うのであるから、この戦に破れるならば、楠木は城も領地も没収されよう。もし戦場から生還しても、必ず捕らえられ、首刎(は)ねられるに違いない。そこで御坊にお願いだが、途方に暮れる私の妻子をどうか助けていただきたいのだ。」と正成は菩提寺、観心寺住職に涙ながらに懇願したのではなかったか。

決戦の前日、正成よりも先に義貞が兵庫に着陣

翌五月二十三日の朝、降り出した雨の中、故郷に戻る者たちに老僧の瀧覚坊を送らせ、残る五百余名の楠木勢は更に西へと進んだ。騎馬兵も歩兵も全員が片手に槍や薙刀を持ち、逆の腕には麻縄の束やら杭やら戸板を抱えての奇妙な姿の進軍だった。だが一日降り続く土砂降りの雨で思うに進めず、摂津尼崎で再び宿営することに。
幸いにも兵庫の地理は、正成南河内の地侍でありながらもよく精通していた。新興の楠木家は農業を専らとせず、商工業から運送業、警護サービス業と言った今日の三次産業にまで手を伸ばしていた。兵庫では平清盛以来、日宋貿易が続いていたが、正成は唐物(からもの 中国製)の武器などを入手するため、過去に何度か兵庫を訪れていた。

だから正成には足利軍が上陸しそうな地点は、恐らく和田岬辺りだと予想することもできたし、そこに戸板の楯を並べ、官軍が無事兵庫を通過するまでの間、矢を放ちながら敵軍の上陸を防ごうと考えていたと想像できるのだ。

正成もむざむざと死ぬつもりではなかっただろう。これからは筆者の推理、想像である。

「官軍が自分たちの背後をさっさと西宮方面へと通過しさえすれば、和田岬からさっさと撤収し、後は上陸して来る尊氏軍を引きつける小山にでも籠もろう。その内に直義軍も追って来ようが、我が千早城のように何万の敵に包囲されようが、安全に籠城でき、万一の場合は山の後ろに逃げられる、そんな小山が兵庫には?あるぞ、ひとつあるぞ」と正成の頭の中に浮かんだのは、六甲山の前山、会下山(えげさん)であった。「この作戦なら我が兵の犠牲は最小限に食い止められるだろう」と正成は計算していた。

翌五月二十四日、雨上りの晴れ渡った午後、正成はようやく兵庫に到着し、日輪傾く西の空の下、海岸線に目をやって息を呑んだ。なんと新田軍が尊氏軍より先に兵庫に到着した模様で、丸に横一文字の大中黒の軍旗が、生田の森から和田岬まで無数に翻っていたからである。義貞本陣の場所を示す日輪の錦の御旗が海上をにらんでいた。「しまった、遅かったか」と、正成は臍(ほぞ)を噛む思いであった。そんな主の心の動揺には頓着せぬかのように、部下達は官軍の無事到着を万歳三唱して喜んでいた。
直ちに正成は義貞に会見を申し入れた。陣を解いて直ちに京に戻るように説得したが、新田が陛下から錦の御旗を預かり、足利が上皇様から院宣を賜ったのであれば、武家の棟梁が足利なのか、この新田なのかの決着を付けるためにも、是が非とも明日はこの浜にて憎き尊氏と決戦するのだと主張し、正成の言に耳を傾ける新田義貞ではなかった。

正成と義貞との話し合いが長引く内に日は沈みだし、沖合の黒い波間に目を凝らせば、敵のおびただしい軍船が鼠の群れのようにうごめき、一方西の塩屋の方に目をやれば、何万もの松明が長い列をつくってこちらに向かっていた。

次回の予告 「観心寺、―兵庫からの悲報―」

六甲山の裏に脱出路を用意しながら、正成はなぜ全員玉砕の道を選んだのでしょうか。