第三回 正成、東高野街道を京に通う

鎌倉幕府の滅亡

金剛山麓の地方豪族の叛乱一つ鎮圧できない幕府の執権職にある北条家を見限り、千早城の戦線を離脱して鎌倉に戻る足利高氏(後の尊氏)は、近江の守護、佐々木道誉の領に立ち寄って秘密裏に倒幕同盟を結んだ。それは但し、台頭する非農民の力を借りて武家勢力を押さえ、天皇を国の中心者に戻したい大塔宮(おおとうのみや)や後醍醐天皇の思惑とは違うものであった。あくまでも荘園勢力側にある両氏の考えは、荘園には属さぬ非農民勢力をこれ以上台頭させぬためにも、没落する北条氏に代わって足利氏を武家の棟梁とし、一層強力な武家政権を再興したいというものであった。尊氏と道誉は、倒幕の御旗とすべき天皇の隠岐からの救出方法についても話し合ったようだ。数日後、後醍醐天皇は隠岐から難なく脱出され、地元の名和長年等に助けられて伯耆の船上山に立て籠もられた。

一方、足利同様、千早城の戦線を離脱し、故郷の上野(こうずけ)に戻っていた新田義貞に幕府が罰として戦費六万貫を課したことが、新田氏に叛幕を決意させるまでに追いつめた。猫を噛む窮鼠となった新田軍が鎌倉に押し寄せるとも知らず、幕府は御家人の足利氏にも罰として、千早攻め以上の大軍を率いて播磨の赤松鎮圧に取って返せ、と命じるのであった。素直に従うかに見せ、五千の精鋭を率いて京に上った足利高氏は、源氏の長者気取りで丹波篠村(現亀岡市)から全国の諸豪族に倒幕の号令を発するや、赤松氏とも連合して京の六波羅探題(幕府直轄の朝廷を監督する畿内統治機関)を、近江の佐々木氏とともに東西から挟撃してこれを滅ぼした。鎌倉でも北関東から攻め寄せた新田氏に足利留守部隊が味方して、北条得宗家を老若男女を問わず一族総自決に追い込んだ。一三三三年五月のことである。翌月には後醍醐天皇が、大塔宮の綸旨に呼応し、味方に集まった諸豪族を引き連れ、伯耆から京に華々しく凱旋された。楠木正成は尼崎まで天皇を出迎え、一族を従えてご一行の露払いを務めるのであった。

倒幕の思惑の違いと恩賞の不満

倒幕に参加した人の目的は皆それぞれであった。例えば、大塔宮護良(もりよし)親王と、幕府滅亡を機に天皇から名前を頂いて改名した足利尊氏の思惑は、全く相反していたのである。言うまでもなく天皇や大塔宮が望まれるのは、天皇が国の中心者として武家を初め、全人民を統治される世である。一方尊氏の願望は、倒幕の功績により、武家の棟梁に相応しい位を頂き、自らが領地を与える権能を持つことであり、彼の弟、直義(ただよし)に至っては更に徹底して、足利氏による鎌倉幕府の再興が目的であった。

この様に思惑の違う人々が集まって、後醍醐天皇による「建武の中興」が始まったのであるから、遠からずご親政は挫折する運命にあったと言える。北条氏の領地が没収され、先ずは経済的に恵まれなかった公家衆に分けられた。しかし天皇にお味方した者たち総てに領地が与えられた訳ではなかった。その殆どが、勝利の暁に功に応じた領地を約した、大塔宮周辺が乱発した「綸旨(りんじ)」や、尊氏が将軍気取りで振り出した「御教書」という約束手形に釣られた者たちであったので、報償に与える領地の不足は深刻な問題であった。だが信用を保持したい尊氏は恩賞に頂いた土地に既存の領地を加えて配下の武家たちに分け与えた。それに比べ、赤松円心を初め、大塔宮のかけ声に集まった者たちには、与えられる恩賞は少なかった。それどころか、その綸旨は偽物だと約束が反故にされた者さえいた。領地不足の犠牲になったのは、中宮(皇后)の実家である西園寺家である。北条と親しかったという理由で領地を没収された。ご実家の没落に気落ちされた中宮様は病床に伏せられ、そのまま薨去(こうきょ 位高き人の死去)されてしまわれた。

中宮様に代わって天皇に次ぐ准后(じゅごう)の地位に昇ったのは、絶海の隠岐島にて一人天皇と寝食を共にした寵妃(ちょうき)の阿野廉子(あのかどこ 以後は音読みして敬称する)である。大塔宮に足利氏を睨(にら)む征夷大将軍職をねだられた天皇は、それを了承する代わりに准后廉子(れんし)が生んだ恒良親王を皇太子に、という彼女の願いを大塔宮に承諾させられたのである。

楠木正成の栄達

倒幕功労者の内、天皇が特に目を懸けられた者たちには身分低き者がいたが、彼らには破格の栄達が与えられた。結城(ゆうき)親光、伯耆守(ほうきのかみ)名和長年、楠木正成ら、その名に「き」が付く三名の武将たちと公家の千種(ちくさ)忠顕の四名であり、ひとは彼らを三木一草と言った。中でも天皇の正成へのご配慮は格別であった。全国の地頭が廃され、新たに国司が置かれ、地頭を束ねてきた守護は国司の補佐役に成り下がった。正成は河内の国司、摂津、河内、和泉の守護に任ぜられ、宮中への昇殿が許された。氏素性知れぬ輩が昇殿とは、と正成が辱められぬよう、在りし日の名家、橘氏を氏名(うじな)に用いるよう天皇自ら指示された。また去る笠置での旗揚げ時に天皇には「南の木を頼れ」との夢告があったので、楠ゆかりの武将を探したという伝説も、貴き天子が何故卑しき男と接するか、と正成をやっかむ者が言わぬようにとの天皇のご配慮であった。

昇殿を許され、時には朝議の端に参列するようになった正成は、京まで東高野街道を度々通うことになった。かつて聖徳太子の時代には、大阪平野は上町台地を除いてその殆どに巨大な湖が広がり、長柄付近の水の隘路で大阪湾と繋がっていた。それから七百年の月日が流れ、湖こそ干上がり無くなったが、名残の深野池(ふこのいけ)を囲んで現在の守口市、門真市、東大阪市付近には広大な湿地、沼地が広がり、河内国を南北に行き交う人馬の往来は、昔ながら生駒連山の西麓に沿わなければならなかったのである。

栄達に有頂天となり、何故天皇のお味方をしたのか、という初心を忘れそうになる正成であったが、天皇の膝元で遊ぶ一人の愛くるしい美少女が、尊皇の精神を嫌が負うにも彼に思い出させた。数えで九歳になる長子の正行(まさつら)とそう年齢が変わらぬように正成には見える。陛下があまりに可愛がられるので内親王のお一人かと思いきや、衣装など見る限り、そうではないようだ。もしもあの様な高貴な姫様を我が家の嫁に貰えたら、などと我が身の栄達に酔いながら、一体どなた様の姫君かと公家衆に興味津々に尋ねた正成は、その素性を知って顔色を失った。

正成の俊基卿を偲ぶ涙

正成が息子の嫁にとふと思った愛くるしい美少女こそ、進んで刑死の道を選んで尊皇の生き様を正成に見せつけた日野俊基(ひのとしもと)卿の遺児であったのだ。両親を失い、天涯孤独になった少女を、隠岐から戻られた天皇は京中を探され、無事に見つけ出された後はお側において養育なさっていたのである。
東高野街道を河内東条への帰り道、正成は馬上から一人つぶやいた。倒幕の第一の功労者は、むしろ今は亡き俊基卿であったのではなかったか。正成は楠木一族を千早城での生死を超越した奇跡の戦いに奮起させた俊基卿の辞世の詩を思い出すのであった。

古来一句  (古来一句あり)
無死無生  (死も無く、生も無し)
萬里雲尽  (萬里雲尽きるところ)
長江水清  (長江の水清し)

思えば大宇宙の無窮の死の時間の中に、瞬きの様な生を輪廻(りんね)転生する人間は、死を前にては、富も、領地も、位も、栄誉も、皆はかないものである。しかし盛衰し、生滅する肉体の衣の下には、人間の永遠不滅の魂が、神仏の分け御霊(みたま)としての無窮の生命が、力強く流れている。であればこそ、人は良心から真実の永遠不滅なる信条に生きようとし、輪廻を繰り返して魂を磨き、その究極には人間本来の善相に収斂して行くべきものなのである。卿は死に臨んで、この詩のように、心が何一つ執着せず、「我が使命を果たし、我が信条を曲げることなく生きたのだ」と実に清々しい気持だったに違いない。
「俊基卿よ、貴殿の天子への忠誠心は真実じゃ。儂(わし)は天子様の為と言いながら何を犠牲にしたのじゃ。それどころか、恥ずかしくもその結果、名を揚げ、財さえなしたのじゃ。儂は値打ちのない形ばかりの忠臣じゃ。」
領国に戻る正成の足取りは重かった。正成の憂国の涙をよそに、京では大塔宮将軍と足利兄弟と対立が一触即発の危機に直面し、ご親政そのものを粉々に砕こうとしていた。

(次回の予告 第四回 宇治川の対陣 正成と幼き弁内侍が宮中で出合う場面は「太平記」にも他の記録にもない。筆者が太平記を精読した上での洞察と直感による創作である。)