第二回 千早城、1333年春

太平記に登場する人々の心

平安中期に貴族が地方に所有する荘園を警護する役目で登場した武士団は、やがて貴族に替わって国の統治権を委任されるまでに勢力を伸張し、日本の中世が始まった。武士や寺社によって農民は荘園の中に悉く囲い込まれ、ここに封建制武家社会が確立する。しかし鎌倉期も末期になれば、非農民である漁民、商人、職人、芸人などが台頭し、貨幣(宋銭)経済を発展させた。銭で買えぬものは無く、人の身さえ銭で買える時代となる。非農民たちは封建制度に組み込まれた荘園には住まわず、新興の領主を頼った。御家人の身を離れて関東から畿内に流れ、石川の支流、東条川辺りを領有した楠木家などは、彼らが求める格好の新天地であった。藁をも掴む思いで台頭する新興勢力までを当てにして、北条氏から国の統治権を朝廷に取り戻そうされたのが後醍醐天皇なのだが、そのような天皇と公家たちの夢は日の目を見ぬまま遂に潰(つい)えるのである。
さて歴史に学ぶということは、単に時代を社会学的に考察しておれば良いのではない。人間とは個々に「心」を持った存在で、誰もが合理主義や損得勘定で同じように行動する訳ではないからである。確かに人の「心」を外から客観的に正しく知ることは困難だ。だからと言って人の足跡だけを見て、その時代を知り尽くしたと言えるものでもなかろう。人の「心」の中を問わずして人を単に集団として扱い、その行動や足跡のみで時代を考証しているから、今日学校での歴史授業を無味乾燥のつまらないものにしているのではないだろうか。

自殺した筈の正成、赤阪城と領地を奪還す

笠置山にて後醍醐天皇から直接お声を掛けられた楠木正成は、嘗ては北条の御家人だった自分たちが、最早退くに退けぬ一線を越えてしまったと悟ったであろう。しかし最初の赤阪城の戦い振りを見る限り、彼らの「尊皇」はパフォーマンスの域を越えてはいない。大軍に包囲され、味方から大量の死傷者が出そうになると、城主正成は城に火を放って自殺したと見せかけ、単身いずれかに身を隠した。理想や目的の成就よりも、味方を壊滅させぬことを優先したのである。赤阪城落城の十日余り前、幽閉されておられた後醍醐天皇は、泣く泣く御位の神器を新しい天皇にお譲りになった。かくして元弘の変は一段落したかに見えた。一三三一年十月九日のことである。年が変わって三月、未だ熊野にて捕縛されぬ尊雲法親王様を除いて、元弘の変の首謀者、関連者が一斉に処分された。先の天皇は隠岐に遷幸が決まり、一の宮様、二の宮様は土佐や讃岐に流罪となられた。しかしこれで平和が戻ったと幕府が安心したのも束の間であった。南河内東条方面の新しい領主として赤阪城に湯浅成仏を遣わしたのだが、四月三日、城内に食料を運び込む兵站部隊が楠木勢と入れ替わり、まんまと自殺した筈の正成に城内に入られて赤阪城と東条が楠木勢に奪還される事件が起こった。
翌五月、突然天王寺まで軍を押しだした正成は、その討伐に六波羅探題が遣わした隅田、高橋両軍を逆に渡部橋(今の天満橋)付近で打ち破り、京に敗走させたので、幕府の面目はまたもや潰れることになる。この時正成、四天王寺にて僧から聖徳太子が著された「未来記」を見せてもらっている。その暗号のような太子の予言の謎解きをして、第九十五代の後醍醐天皇が、必ず隠岐からお戻りになり、幕府を廃されて王政復古なされることを正成は確信した、となっている。(太平記巻六)これが彼の「尊皇」が真摯な信仰のように本物になっていくひとつの機縁だったのかもしれない。
そして同月二十九日、各地で幕府へ叛旗を翻す宮方への見せしめか、佐渡では日野資朝(すけとも)卿が、鎌倉では、朱子学を説いて正成に天皇のお味方をさせた日野俊基(としもと)卿が同時に処刑された。俊基卿の遺骨は、卿の辞世の詩とともに京の自宅に届けられた。夫人は卿の変わり果てた姿を見せられ、気落ちして寝込んだとも、出家した(太平記巻二)とも伝えられる。やがて夫人は昇天。後には十歳に満たない幼い娘が遺された。その姫君はしばらく世間から忘れられることになる。この姫君が、シリーズ後半のヒロイン、吉野朝廷の才媛と謳(うた)われた、弁内侍(べんのないし 父の俊基を弁殿とも言った)様となるのだが、それはまだ先のこと。天皇の罪を被って自らの生命を絶つことで卿の人生の究極の目的が成就したと、思い残す事なき満足感に浸る卿の漢詩は、やがて正成にも伝えられた。これこそが正成の尊皇の心を熱狂的なものにする本命になったと筆者は考えるが、紙面の都合でこの話は後日に譲るとする。

楠木正成、河内、和泉二国を平定し、千早城に入る

この頃、三の宮、尊雲法親王は還俗されて大塔宮(おうとうのみや)護良(もりよし 戦前はもりながと読ませた)親王と名を改められ、吉野にて挙兵なされた。
中河内から和泉方面に出陣していた楠木勢は、湯浅成仏、平野将監(しょうげん)など続々と味方する者が増え、あっという間に河内、和泉の二国を平定した。一方楠木家の留守部隊は金剛山麓に上赤阪城を、金剛山中には千早(太平記では千剣破)城を新築し、寄せ来る幕府軍と対峙する準備を整えた。幕府軍は直ちに東条の谷を攻めるも、野伏せりの奇襲にあって一旦は敗退した。一方播磨では吉野から大塔宮が発せられた令旨(りょうじ)を受けて赤松円心が挙兵に及び、山陽、山陰両道を遮断する事態となった。
九月二十日、畿内(関西地方)や西国の異変を重く見た北条高時は、遂に大軍(太平記では八十万)を京へ派遣した。(太平記巻六)翌一三三三年一月、京に集結した関東軍は三手に分かれて、吉野、赤阪、金剛山に向かった。
正成は直ちに兵を納め、急いで東条に帰る。だが上赤阪城はあっけなく落城してしまった。上赤阪城の守備隊、平野将監率いる百数十名が、寄せ手に水源を押さえられ、仕方なく降伏したのだ。平野勢は捕縛されて京へ連行され、見せしめのため全員が打ち首となった。しかしこれがかえって千早城の守備隊を鼓舞することになった。 楠木勢は、城への唯一の入り口である東条川(今の千早川)をまたぐ橋を外し、不退転の決意で千早城に入った。城内に立て籠もるのは正成と久子夫人、彼らの幼い二人の息子たちと乳飲み子が一人、楠木家の家人らと、和田家の養子となった弟の家族とその家人たち、それに正成に心服する湯浅成仏とその一族の総勢五百名たらずである。 そこへ何十万という幕府軍が押し寄せた。押し寄せる側も、その人数に見合う食料、生活品の調達をしなければならぬ。住む人も少ない千早赤阪で現地調達とは行かぬ。食料、武器、戦の消耗品、草履などを運ぶおびただしい荷駄の列が、東高野街道を来る日も来る日も南に進んだ。寄せ手にすれば一日も早く終わらせたい。だが籠城側が櫓の上から谷越えに投石はするし、川原から攻め上がろうとすれば巨木や巨石を投げ落とすし、熱湯を長柄の柄杓でまき散らすという訳で籠城軍は頑強に抵抗するし、戦場での負傷者からの物獲り目的で集まった伏せりたちには日暮れと共に野営地にゲリラ戦を仕掛けられて、千早城包囲戦は一向に終わりそうになかった。

金剛山、未だ破れず

やがて寄せ手側から京へ帰る者が増えだした。兵糧調達が限界に来ていたことに加え、陣営に蔓延する伝染病が帰陣の口実となったのだ。考えても見よう。二十万もの兵がこの山村に数ヶ月も野営したのだから、人糞の堆積で足の踏み場も無くなり、飲用水は汚染され、衛生状態は極度に悪化していたのである。
寄せ手の中で距離をおいて眺めていた坂東の源氏の棟梁たち、足利高氏(後に尊氏と改める)と新田義貞も戦らしい戦もせぬまま陣を引き払った。僅かな叛乱者にこのような大軍を差し向ける幕府の臆病さも笑止ながら、結局制圧できずに時を浪費したことが、この有力御家人たちに主を見限らせる結果となった。
関東の大軍が陣を払った後に押し寄せたのは、紀伊から新たに参陣した名越(なごや)勢と、大塔宮様の首級(実は身代わりに討たれた家来の首)を矛の先に掲げて吉野から誇らしげに凱旋してきた大仏(おさらぎ)勢である。太平記には、この千早包囲戦に最後に参加した名越、大仏両勢に、正成が鎧を着せた藁人形などの奇策を用いて翻弄し、最後には寄せ手が自前で普請した橋を渡る時に、橋もろとも彼らを焼き払って殲滅する過程が詳しく書いてあるのだが、小説を書くつもりではないのでそれは省略する。一方、家来の村上義光が身代わりになったお陰で九死に一生を得られた大塔宮様は、吉野を脱出して金剛山中に潜伏され、「金剛山、未だ破れず」のメッセージを諸国に送り続けられた。千早城に籠もる正成の「尊皇」は純粋であった。しかしこの時、大塔宮様の名が入った倫旨や、足利高氏の「御教書」(みぎょうしょ)なる書き付けが全国に氾濫していたのだ。それらは皆、新しい領地で釣って天皇へのお味方を誘うものであった。人心は既に北条幕府を見放していた。新しい時代の到来を望む庶民の声と共に、高邁な理想に醜い人の欲が絡み合いながら、着実に時代は移りつつあった。

(第二章 完)