第八回  楠木一族、後醍醐天皇を吉野にお連れする

「伝説の虚構を暴き、正成最期の真相に迫る第二弾」

後醍醐天皇、叡山に逃れられる

前二回に渡って小説風に書いてきた中世日本の最も劇的な戦闘として知られる「湊川の戦い」は、筆者が改めて言うまでもなく、郷土の英雄、楠木正成をして忠君愛国の烈士としてその名を不朽に留めることになった戦いである。一三三六年(建武三年)の五月二十五日(旧暦であるから今日の七月初め頃か)であるから、それは今からまだ六百七十年くらい前のことである。
前二回の文章を読まれると、楠木正成が兵庫に赴く時から自滅を覚悟していたとする従来の「湊川の戦い」の見解を変えられることになったかもしれない。楠木軍五百名が兵庫に赴いた目的が、九州から都に攻め上る足利の大軍と戦う官軍、即ち約一万の新田軍を援護することではなく、ただ無傷で官軍を京に帰すことであったのだと、ところが戦争の中で幾多のハップニングがあって一族が自決しなければならなくなったと筆者は主張するのである。しかしながらこの翌朝、武庫川の東岸まで東進していた新田義貞は、楠木軍が主、正成とともに全滅したことを知るや、京の後醍醐天皇をお護りするという使命を忘れ、自殺願望にでも取り憑かれたように兵庫にとって返し、その結果、足利軍に大敗して、大半の味方を失って這々の体で京に戻った。だから義貞は、正成が自らの生命を犠牲にして捧げてくれたものを無にしてしまったのであるから、兵庫に赴く正成の意図が何だったかなど、後の世には顧みる人もいなくなったとしても仕方がないことかもしれない。
後醍醐天皇は正成の死に悲嘆されながら、比べて義貞の戦略の無さにどれだけ失望されたであろうかと思う。天皇は仕方なく都を捨て、皇族や公家らを引き連れ、三千の僧兵が立て籠もる叡山に逃れられた。しかしこの時、後醍醐天皇の皇統とは違う、持明院統の光厳上皇などはお供をされなかった。やがて足利尊氏や直義が京の東寺に入り、そこを武家方の本陣とすると、持明院統の皇族や公家たちは足利の庇護の下に入られた。
新田義貞率いる数千の軍勢は傷の手当をする暇もなく叡山の麓を固め、攻め寄せる足利軍への楯とならねばならなかった。京や近江で両軍の激しい戦闘が繰り返される中、後醍醐天皇が叡山に立て籠もられて四ヶ月が経過し、延暦寺にも晩秋の影が忍び寄るのだった。最初は南都(奈良)諸寺の僧兵らも叡山に呼応して蜂起を繰り返し、足利軍を困らせていたが、九月になれば武家方に鎮圧され、次第に天皇方は孤立無援となっていった。

新田軍、足利との和議を進められる天皇を諌める

この時を待っていたように足利尊氏は叡山の後醍醐天皇に密かに和議を持ちかけたのだ。叡山の麓で、かつての千早城ではないが、味方から多大な犠牲者を出しながら四ヶ月も籠城戦を戦い抜いた新田義貞が、敵からの和議申し入れなど承伏する訳がない。しかしこの四ヶ月の間に建武の親政に功労ある近習を次々と失うことになった天皇にしてみれば、この膠着状態を脱するに、新田を除いてでも一旦は足利の和議申し入れを容れ、京に戻るしかないと考えられたのも自然の成り行きであろう。
天皇方と足利尊氏との間で新田に内緒で和議が進められていたことを義貞が知ることになったのは十月九日のこと。義貞は供の者五十名ばかり引き連れ、激昂して叡山の天皇の下に馳せ参じ、直談判した。新田与党の驚きは想像に余りある。昨日までの官軍の総帥は、足利方に下された光厳上皇の院宣に言う「凶徒義貞徒輩(やから)」として、明日からは追討を受ける運命におかれるのだ。「太平記」(巻十七)によれば、新田一門の堀口貞満(越前守護、堀口貞義の子)が、主の義貞に代わって、今にも京に出立される天皇の輿(こし)の柄にとりつき、次のような内容を涙ながらに奏上したとある。
(義貞にいかなる不義があったのでしょう。多年の粉骨の忠功をも見捨てられ、今は大逆無道の尊氏へ叡慮を移されるのでしょうか。綸旨(りんじ 勅命)をいただき、陛下に忠誠を誓ってからは、関東の野に屍を積み、西国の風雨に惨苦をなめ、一族郎党から出した戦死者は八千名を超えました。しかるに今敵に勝機が巡り、味方が不利なのは、吾らの戦ぶりに咎(とが)あるからではなく、帝の御徳欠けるが故にお味方する者少ないからではないでしょうか。それでも京に臨幸しなければならないとおっしゃるなら、どうか義貞始め吾ら新田家の氏族五十余名の首を刎(は)ねてからにして下さい。)

義貞、北国に新王朝を開き、尊氏、京に幕府を開く

天皇は義貞を官軍の総帥を任じながら、蚊帳の外において内緒に和議を進めてきたことを率直に詫びられ、ご自身の考えを初めて明らかにされた。尊氏との和議は本意ではなく、後醍醐方が再起できるまでの時間稼ぎであること。和議によって新田義貞一人が天下の賊とならぬよう、十三歳の東宮、恒良親王に帝位を譲った後に義貞に奉じさせよう、よって新田義貞は一族を引き連れ、新帝を堀口氏所縁の越前に潜幸させよ、とのお言葉であった。
新田義貞は涙を流して喜び、新帝恒良親王と上将軍、尊良親王を奉じて、天皇近習を引き連れ、叡山を北に向かった。敦賀に着くや、敦賀湾に飛び出す小さな半島にある金崎城に入った。敦賀に新王朝が誕生したのである。
また天皇は叡山天台座州に任じていた宗良(尊澄法)親王を北畠親房とともに伊勢へ赴かせ、四条隆資(たかすけ)を紀州へと赴かせた。
十月十五日に天皇は叡山を下られた。尊氏が出迎えてみれば、尊良親王も東宮も一行の中にその姿なく、中興政治を推進してきた公卿たちもいなかった。後醍醐天皇が彼らを各地に派遣したことは明白であり、そしてそれは帝が尊氏討伐の意思を放棄していないことを意味していた。
足利尊氏は近江にいた小笠原、村上などの信州勢に新田軍の追撃を命じるとともに、予定通り後醍醐天皇に迫って、三種の神器の光明院への授受の儀式を行った。十一月二日のことで、同じ日に後醍醐天皇には太上天皇の尊号が贈られた。光明天皇は光厳上皇の御弟君である。ところが上皇後醍醐は光明帝に授受した神器は偽物だったと、御位の禅譲は無かったものと宣言されたのだ。つまり上皇後醍醐は未だ天皇である、ということになり、そのことは義貞が奉じる東宮の即位も同時に否定することを意味した。後醍醐天皇と側近は監禁状態におかれることになった。光明天皇への偽神器授与の五日後、足利尊氏はかねてから念願の幕府を開き、幕府政治の綱領とも言うべき「建武式目十七条」を制定した。

後醍醐天皇の京脱出作戦

十二月に入って十日の日に、光明天皇は東寺の仮御所を出られ、室町の内大臣、一条経通(つねみち)の邸に移り、ここを仮の内裏とされた。これから十一日後の、十二月二十一日、花山院に幽閉されていた後醍醐天皇の一行が突然姿を消した。
多数の足利方の武士が警護する中で、なぜこのような脱出劇が可能だったのだろう。後醍醐天皇の京脱出作戦は、北畠親房が練り、楠木一族が実行した。因みに後醍醐天皇一行は、公家の婦人の衣装をまとって深夜に脱出したのだ。それは足利方の武士たちが警護する花山院が、深夜に女たちが出入りしても咎める者が無いほど風紀が乱れていたことになる。女たちが警護の武士相手の商いを済ませ、深夜に連れだって出て行こうとも、怪しむ者はいなかったということなのか。実際はどうだったのか、知るよしもないが、もしそんなことがあったのなら、身を売らねばならぬほど零落した公家の婦人に扮した女たちも、実は楠木が集めた遊び女であったのだろう。
天皇の足取りを追跡すると、京の街を出られ、宇治川を渡られ、南に下って木津川を渡られ、奈良坂を登って南都に入られ、そこから大和路を斑鳩の法隆寺に向かわれたことが分かっている。法隆寺は、南河内の楠木軍、即ち正成亡き後の残党たちとの合流場所であった。勿論、この時、正行少年も同行していたようである。一行はそこから大和高田を経て、風の森の峠を越え、五条に入って吉野山を目指した。
この時、後醍醐天皇に随行した人々の中に、十二年後、即ちこのシリーズの最終回に登場する南朝方が、完膚無きまでに北朝の大軍を破る「風の森の戦い」作戦の参画者が複数含まれていたことを考えれば、その者達は風の森の地形を確かめながら、平家物語に登場する北国のくりから峠(寡兵の木曾義仲が平家の大軍を谷に追い落として大敗させた戦場)に形状がよく似た「風の森」こそ、即ち谷底を這う一本の道しかない地形では、いかに大軍たろうとも一列に並んで行軍するしかなく、寡兵が多数の敵を各個撃破できる絶好の戦場だときっとこの時に見出していたのではないか、とふと考えるのである。
さて新田義貞が新帝を奉じて立て篭もった金崎城での戦いは、日本の中世史上最も凄惨な戦いとなった。壮絶な越前金崎城落城の日まで後三か月である。  (次号に続く)
次回のお知らせ 「吉野朝廷(南朝)慟哭の旗揚げ」