第十回 枚岡~北畠顕家と楠木家の会談の真相を探る~

北畠公園の地下に静かに眠る北畠顕家

北畠という町名は帝塚山と並んで大阪の高級住宅地の代名詞である。なぜ北畠と言うようになったか。思うにその地の阿部野神社※に北畠顕家(あきいえ)とその父親房が祀られていることに由来するのだろう。北畠の東端を南北に走るあべの筋を挟んで北畠公園がある。北畠公園の名は、公園の中に南北朝の戦乱の中、堺浦石津で二十一歳の若き命を散らした北畠顕家(あきいえ)の墓があることに由来している。この地に戦死した顕家の遺体が埋葬されたのだとしても、武士の時代の習い、首だけだったのか、あるいは首の無い胴体だったのかもしれない。なぜ戦死した地から何キロも離れた此の地に埋葬されたのかを筆者は知らない。現在の墓碑は後の江戸時代に建立されたものである。顕家は優れた兵法家であるとともに雅楽の舞の名手であったとも知られ、それなら美しい舞の衣装が似合う紅顔の美少年であったに違いないと後世の人が想像するようになった。因みにNHKの大河ドラマ「太平記」では、そのようなイメージから顕家役は女優の後藤久美子さんが演じていた。(※阿倍野区にあって阿倍野とは表記しない特異な名称である。)

不敗の将軍、故郷の伊勢に帰る

一三三七年(延元二年)八月十一日、後醍醐天皇が寵愛した准后廉子(じゅごうれんし)様がお生みになった三名の皇子の中で今や唯一の生存者となられた義良(のりよし)親王を奉じ、北畠顕家は陸奥国(むつのくに)霊山城を数千名の蝦夷(えみし 東北人)の兵らを引き連れ、不敗の風林火山の軍旗をかざして再び京に向け出発した。十二月八日には小山城を陥落させ、同じく二十三日には鎌倉を落として、足利尊氏嫡男、義栓(よしあきら 後の室町幕府二代将軍)を京に敗走させている。
年が明け一月二日、顕家は鎌倉を出発し、同二十四日、北条の残党らと連合し、美濃の洲俣川で足利軍を大破した。しかしこの後、京に一気に進軍せず、なぜか尾張に軍を退却させ、そのまま郷里の伊勢に向かった。二月一日、現在の松阪付近にあった田丸城で、顕家は弟の顕信(あきのぶ)らと再会したが、父親房は吉野にあって顕家には会おうともせず、陸奥(みちのく)軍には身体を休める暇も与えず、この勝機を逃さず直ちに大和山城国境辺りで足利軍と決戦をすべしと命じるのであった。

南都の大都会が陸奥軍を呑み込む

仕方なく、顕家は陸奥軍を率いて伊勢路を大和の榛原に進み、青垣山と言われる連山の麓を北上し、南都(奈良)に入った。平安遷都の昔、平城(なら)の都の跡は荒れ野となって、その北東の東大寺、興福寺、春日大社の門前町だけが人の住む処として残った。門前町という行政に縛られない自治都市であったが故に、荘園からはみ出す商人や職人や芸人など多く集まり、北の京に対抗する賑わいを見せるようになって、いつしか南都と呼ばれる迄になった。
中世の南都を支配したのは興福寺を二分して誕生した「一条院」と「大乗院」であり、それぞれが一大封建領主であった。この両勢力とも南北朝のいずれに味方するのか、態度を決めかねていた。しかし顕家の軍は南都に入るや、所構わず兵糧の強奪を初め乱暴の限りをつくし、味方にすべき勢力まで敵に回してしまった。加えて顕家にとって致命的だったのは、陸奥人らには初めての物の豊かな大都会であったからか、肉体的快楽への誘惑に満ちた街の中に半数近い兵が消えてしまったのだ。つまり彼らは鎧や武具を脱ぎ捨てて逃亡したのである。

顕家、敗残兵を率いて暗越えを河内に進軍する

二月二十八日、木津から奈良坂を登ってきた幕府方の桃井直常らの軍と般若坂での決戦に挑んだ顕家は生まれて初めて敗戦を経験することになった。吉野の朝廷から河内の楠木に北畠軍への合流を催促する軍令状が何度も出されたが、遂に楠木軍が駆けつけることは無かった。それでも河内に赴き、楠木軍と合流せよ、との吉野の命令に従い、義良親王様を吉野に送らせ、顕家は暗(くらがり)越えを敗残兵率いて河内に向かうのであった。
暗越奈良街道と東高野街道が交差する生駒山麓の枚岡にて顕家を待っていたのは、楠木正成の未亡人、久子夫人と長男の正行(まさつら この頃十二、三歳か?)少年だった。彼らは軍勢を伴わず、僅か二人で顕家に会うためだけに来たのであった。それを見て顕家、総てを悟り、楠木家の大黒柱がまだこのような歳ならば、従軍が無理なのは止むを得ず、吾等は和泉で命を落とす覚悟だが、いつの日か楠木正行も南朝を護る盾となる日が来るだろう、と笑って別れを告げ、和泉をさして進軍し、全員が戦死したと伝えられる。しかしこの報を受けた吉野側の思いはどうであったろう。楠木の嫡男の年齢などよりも、楠木の嫡男が生き延び、その為に名家北畠の嫡男が命を落とすことこそが問題であり、特に父親であるとともに南朝の参謀でもあった北畠親房にはどうにも納得できず、楠木家への恨みだけが残ったに違いない。

顕家軍を迷走させた兵糧事情

さて顕家率いる陸奥軍が何故美濃からそのまま京に進まなかったか、もしも関ヶ原辺りで北国(ほっこく 越前〜越中)に勢いを盛り返した新田軍と連合していたら、その後の歴史は大きく変わったに違いない。そのような勝機を捨ててまで伊勢に後退しても、父親の親房とは会えなかったのだから、伊勢へのUターン作戦は親房の命令によるものではなく、顕家の独断であったと見るのが自然である。
それは実は謎でも不思議でもない。太平記にはこの陸奥軍が進軍する時、その兵糧(戦用の飲料、食糧、草履などの消耗品)は総て現地にて強奪、略奪して賄ったと記されている。彼らが通過した街道沿いは草も生えなかったと伝えられるほど、それは凄まじいものだった。しかし京に近付くにつれ、顕家は略奪行為を続ける訳には行かないと思ったのだろう。京の公家たちの間でそのような噂が流れることには我慢がならなかった。だから北畠の領国である伊勢へと転進した。しかし彼の故国も、大勢の蝦夷の軍勢を養う余裕は無く、それが親房をして直ちに大和に進軍せよ、と息子に命じさせた理由であろう。そんな待遇を受けた陸奥の兵が南都で逃亡した事情も頷ける。
ではここで読者の皆様に考えていただきたい。顕家が枚岡で楠木母子と会った三月の月初から、顕家が戦死する五月二十二日までの約八十日間、いくら人数が減少したとは言え、それでも数百名は残っていたであろう陸奥兵らを、顕家は一体どこでどうやって飯を食わせたのであろう。ここまで言えば、はっと気付かれることがおありではないか。

顕家軍は楠木家に匿われていた

筆者も顕家が枚岡を通過した後、戦死するまであまりにも日数が経っているのに注目し、伝えられる枚岡の出会いのエピソードが、真実と違うのではないかと思うようになった。確かに楠木軍は北畠軍には加勢はしなかった。軍勢を貸すことはできないが、陸奥兵らを休ませ、食糧を提供することなら協力は惜しみません、これがその日の久子夫人が顕家に申し入れた真実の会談の内容ではなかったか。
枚岡を出発した後、顕家は三月八日天王寺で幕府軍を破っている。しかしその後は忽然と姿を消したのだ。どこに行ったのだろう。それは河内の東條以外は考えられない。奈良での戦いがあった頃、伊勢の北畠顕信(あきのぶ 顕家の弟)が吉野の命令を受けて八幡の男山に立て篭もった。しかし顕家軍を壊滅させたい高師直(こうのもろなお)率いる幕府軍は、男山の顕信など相手にせず、そのまま淀川沿いに浪速まで進軍した。途中、河内への玄関である渡辺橋(現在の堂島川の橋ではなく、天満橋付近の橋)には楠木軍が寄せていたので、彼らとの衝突を避け、淀川下流まで進軍し、渡河して和泉に大軍を展開し、顕家軍を探したが見つけることはできなかった。
五月の中旬になって幕府軍の一部が楠木軍を押しのけ、強引に渡辺橋を押し渡り、河内に入ろうとした。するとそこにどこからともなく顕家軍が出現し、幕府軍を渡辺橋まで押し戻し、そのまま和泉の高師直の本陣まで駆け出した。そして多勢に無勢、彼らは全員石津で討ち死にしたのである。故国での食糧の援助さえ拒絶された顕家、久子夫人から八十日近くも食わせてもらったことについて、どれほどの恩義を感じて死んで行ったことだろう。だが問題はそれを吉野朝廷や、親房卿が分かっていたのか、どうかである。
そうしてこの十年後、筆者の心配は的中する。南朝の参謀総長となった親房は、この枚岡での楠木家への恨みを、やはり忘れてはいなかったと思われるからだ。(次号に続く)

北畠顕家と楠木母子が会見したところは枚岡のどこか分かっていない。この辺りは東高野街道が二つに分かれ、一つは生駒山山麓を斜めに登り、枚岡神社の前を通過する。もし顕家に早く会いたいと楠木母子がこの道を登って来たのなら、暗越え奈良街道と交差するこの辺りで顕家と会ったことになる。もう一つの東高野海道は平野部を進み、奈良街道とは箱殿で交差する。奈良街道は暗り峠から急坂を下ってくる。乗馬しては下れないだろう。下りきった処が箱殿であるから、そこが会談場所だったのかもしれない。

 次回 第十一回 巨星墜つ。
尊氏は天竜寺を建て、親房は神皇正統記を著す