第九回 吉野朝廷(南朝)慟哭の旗揚げ
「伝説の虚構を暴き、正成最期の真相に迫る第二弾」
金崎城落城の始末がその後の歴史を変える
一三三七年(建武四年)の正月を迎え、昨年夏には新田義貞率いる宮方の軍勢を粉砕し、楠木正成を討ち取り、後醍醐天皇に対峙(たいじ)する別の皇統から新しい帝(みかど)にご即位いただき、秋には宮方残党を越前敦賀に追い詰め、年末には後醍醐天皇が吉野山中に逃亡されるのを黙認することで結果的には辺境の地に自分に背く人々を押し込めるのに成功した足利尊氏は、これでほぼ日本全国を掌握したものと、足利の天下が暫くは泰平なり、と大満足であったろう。
ところが尊氏の予想に反し、敦賀湾の小城に宮方を追い詰めた包囲戦の結末が、後醍醐方にとってはあまりに過酷で凄惨なものであったから、宮方にはその後、京の朝廷に対し、こちらこそが正当な朝廷だと、「南朝」の旗を強い意志を以て吉野に揚げさせることとなり、国民が真二つに分かれ、双方とことん憎しみ合い、結果二世代にも渡って血で血を洗う内乱の時代を招くことになろうとは、尊氏ならずとも誰が予想しただろうか。
話を越前金崎(かねがさき)城の戦いに移そう。河内探訪と題しながら一時でも河内から遠く離れた地の話をするのをご容赦願いたい。この事件の後、河内が再び歴史の表舞台に登ることになる、今回はそれへの繋ぎと思ってほしい。
さて越前金崎城は現在の敦賀市の東にある敦賀湾に突き出す岬の先にあって、そこは陸上から海上から徹底的に包囲されたなら脱出路も兵糧の補給路も無い城である。こんな護るに護りようがない致命的な城に、戦闘体験豊富な新田義貞が、どうして大切な尊良(たかよし)親王、恒良(つねよし)親王のお二方を天皇からお預かりしながら籠もったのであろうか。自分たちに大義名分ありと信じ、ひたすら援軍を待っていたのである。だが援軍は次々と城に到着する前に取られてしまう。これでは籠城側は餓死を待つのみであった。
軍馬や同胞の死肉まで食った籠城戦
城内の者たちは、湾内の魚を捕り、磯の海藻類などで食いつなぐも、ついには軍馬をも日に二頭ずつと決めて殺して食ったとある。食うべき馬が一頭もいなくなり、いよいよこの城もあと数日か、という二月の中旬となって、上将軍の尊良(たかよし)親王は、実質的な大将である新田義貞に、弟脇屋義助、公家上がりの洞院実世(とういんさねよ)らの六名の武将を率いて、今宵こっそり海上から城を出、越前杣山(そまやま)城まで出向き、直接瓜生氏や宇都宮氏らに援軍を請え、と命じられたのである。
義貞らは言われるまま杣山城に行き、二十日がかりで援軍を率いて敦賀に戻ったが、太平記によれば、城を囲む敵は十万にまで膨らんでは近づくこともままならず、多勢に無勢、なすすべもなく、泣く泣く遠くから傍観するしかなかった、とある。
三月六日、城内には食糧が既に尽きており、餓死者が出始めたのを知った足利軍は遂に総攻撃に出た。それに対し、城内では戦うどころか、立ち上がることすらできず、苦しげにあえぐ者が多かったと言う。足利軍が城内に入ってみれば、大腿骨から肉がそぎ取られた目を覆うべき遺体があった。籠城側は討ち死にしたり餓死したりした同胞の肉をも食していたのである。鼠は勿論、虫一匹、生きて動くものは、ここには見出せなかった。
後醍醐天皇の一の宮、総大将の尊良親王は、まだ少年の恒良親王(後醍醐天皇の愛妾、阿野廉子《かどこ》が産んだ三人の皇子の一番年長者、母堂の出世により、東宮となられた)をこっそり小舟で逃がされた後、一時間ばかり敵と戦われたが、今はこれまでと目前で自刃した義貞長男、義顕(よしあき)に習って見事に自刃なされた。享年三十二歳(満三十歳)であった。それを見ていた宮方の生存者達、全員宮に続いて自害した。
この頃、気比(けひ)大社の宮司、気比太郎、城を逃れ出た東宮を敵の目に触れぬよう蕪木(かぶらき)の浦の民家に隠した後、敦賀に戻って自害した。だが宮司の命に替えた忠義の労も空しく、翌朝には運無く、東宮は足利軍に捕らえられてしまわれた。
もうひとつの金崎城の戦い
筆者が「南北朝の内乱」の発端だとする「越前金崎城の戦い」は、このように宮方の大敗北で終結した。だが金崎城が有名になるのは実はこの戦いによってではない。世の多くの人は越前金崎城を別の歴史事件によって知るのであって、尊良親王ら百数十名の官軍の残党が、足利の数万の大軍に包囲されるも、数ヶ月を持ちこたえ、最後に果敢に玉砕したことを知る人は希である。
金崎城は織田信長の天下布武の時代に再度歴史に登場する。甲斐の武田や本願寺らと結託して、信長の天下統一を阻んできた北陸の朝倉勢を滅ぼさんがため、秀吉、家康らと共にこの金崎城に布陣していた信長の下に、北近江の浅井(あざい)家に嫁ぐ妹のお市から親書が届けられる。兄信長の戦勝を祈念する文面の行間に暗に臭わされていたのは、なんと彼女の婚家の裏切りであった。事態の深刻さを知った信長は、越前攻めの作戦を放棄し、全軍京への撤退を命じる、太閤記の中でもよく知られるエピソードである。
さて話を太平記に戻すが、東宮恒良親王が金崎城に連れ戻された後、足利勢によって城内で討死、自害した者、総数百五一名の首実検が行われた。だが、その中にあるべき新田義貞、脇屋義助兄弟の首が無い。慌てて城内を隈無く探したが、どうしても見つけることができない。途方に暮れた足利高経(たかつね)は東宮に理由(わけ)を尋ねた。東宮は幼いながら気丈にも、彼らの居場所は教えてはならぬと、前日皆より先に自害したので火葬した、と嘘を言われたとある。太平記は、この東宮の気の効かしようが、後で自らのお命を落とされる原因となったのでは、と想像させるのだ。京に届けられた東宮を預かったのは尊氏ではなく、弟の直義(ただよし)であった。嘗て北条の残党が信濃から鎌倉を攻めたとき、そのどさくさに紛れ、牢にあった大塔宮護良親王様を兄尊氏に指示も仰がず、独断で部下に殺させたあの直義である。
次々に消される後醍醐天皇の皇子たち
さて後醍醐天皇の后妃、側室の数は「帝王後醍醐」を著した村松剛氏によれば、三三名にも及ぶ。中宮(皇后)は西園寺禧子(きし)。お産みになったのは皇女お一人。北条幕府が滅んでからは、鎌倉よりだった西園寺家と天皇家との不仲を苦にされたのか、建武の親政が始まってすぐに薨去された。それに代わる地位に昇られたのが阿野廉子(かどこ)様。廉子様は隠岐幽閉という天皇の最大の苦難の日々を進んで共にされた女性である。倒幕後の出世は思いのまま。遂には准后(じゅごう)の地位を得られ、以後は敬称の音読みで廉子(れんし)様とお呼びすることに。
後醍醐天皇の長子は藤原為子様のお産みになった尊良親王、一の宮である。二の宮は、後宇多院の室から再嫁された側室がお産みになった世良(ときよし)親王である。次の皇子は再び藤原為子様次子、宗良親王であるが、この方を三の宮とは言わずに、北畠親子(ちかこ)様がその翌年にお産みなった大塔宮護良親王を三の宮と言う。世良親王が早世されたので、その後宗良親王様を二の宮と呼んだからかもしれない。次に亀山院皇女が皇子をお一人お産みになり、続いて阿野廉子様が、恒良親王、成良(なりよし)親王、義良(のりよし)親王の三方の皇子を続けてお産みになったのだ。天皇はその後九名の皇子様を、皇女様は総計一六名もうけられている。(村松剛「帝王後醍醐」による)
さて後醍醐天皇は多数の皇子をもうけられたが、大塔宮護良親王は既に殺害され、尊良親王は金崎城で自刃され、世良親王は早世、宗良親王は僧籍に入られ、成良親王は鎌倉将軍として今も足利直義に預けられたまま、東宮の恒良親王も同じ直義の囚われの身であって、後醍醐と足利とが敵対する今、この皇子様たちのお命は風前の灯火となった。このお二人にもしものことあれば、身分の高い皇子として残るのは、陸奥におられる北畠顕家(あきいえ)卿が奥州将軍として奉じておられる僅か九歳の義良親王ただおひとりなのである。
陸奥の北畠顕家軍が遂に動く
一方、四月に入ると越前の杣山(そまやま)城は反足利の旗を高々と掲げるようになり、ここに新田義貞健在なり、と全国の宮方を再び鼓舞することとなった。これに危機感を抱いた足利直義は、あろうことか手元にあった十三歳の東宮恒良親王と、十一歳の鎌倉将軍の成良親王を、お食事に毒を盛って日にちをかけて殺害奉ったのだ。病死や衰弱死に見せたかったのだろうが世間は騙されなかった。足利は後醍醐天皇の皇子の四名ものお命をその手で奪ったことになるのだ。天皇のお怒りはいかばかりであったろう。我が子が四名も殺害されたこともそうだが、それよりも国民として崇敬すべきご皇室を、足利兄弟緒からこれほどまでに軽んじられたことへのお怒りは、収まりがおつきにならなかっただろう。このことは最早どちらが勝つだろうか、などと言った打算をさておき、国民の皇室を崇めてきた民族感情を激しく呼び覚まし、皇族に対し不遜の極みである足利を懲罰すべしとの怒り心頭の声が、全国に燎原の火のように拡がったのである。
そして遂に八月、二十一歳の北畠顕家(あきいえ)卿が率いる蝦夷(えみし 東北人)の大軍が、准后廉子(じゅごうれんし)の最後に残された皇子である義良(のりよし)親王を奉じて、陸奥霊山城を出立され、十二月には奥州管領の斯波(しば)家長を敗死させて鎌倉将軍府を陥落させられた。後に武田信玄が真似ることになる「割菱」の旗と、不敗の軍学を説く「風林火山」の旌旗(せいき)をかざして、一三三八年の正月には坂東の新田義興(よしおき)の軍と合流し、正に破竹の勢いで東海道を西に進まれたのだ。
この頃、北国(ほっこく)では新田義貞が勢力を盛り返し始めていた。新田勢が越前から南下し、尾張から美濃に進んだ北畠の大軍と米原付近で合流するならば、京の足利幕府とはいえ、政権が瓦解する危険性すら出てきたのである。北畠軍は美濃で高師冬(こうのもろふゆ)軍を蹴散らし、今川範国(のりくに)の軍を破ったところで、不思議なことに急に向きを変え、軍を伊勢に進められたのだ。なぜ越前の新田勢と合流しなかったのかは今も謎のままである。一説では、北畠軍に吉野の朝廷から何にも優先して義良親王を無事に吉野に送り届けよ、という命令が届いていたからであるとも、一月の豪雪で関ヶ原が越えるに越えられなかったからとも言われている。
(次号に続く)
次回の予告 第十回 「枚岡、楠木母子の涙の誓い」
足利軍との決戦を前にして北畠顕家は中河内の枚岡にて楠木の援軍を待った。だが今は楠木家再興のときと参戦を拒む未亡人は、息子正行と二人きりで枚岡に出向くのだった。