なぜ総ての人の願望が神に届かないのか? 後編

父親が霊園事業に転業しようと言い出しても、私はこの自分がなぜ他人様の死に関わる仕事なぞに?と思いました。でも父親から託された本業の寝具の仕事も、得意先が私たちより先に倒産して行く始末ではどうにもなりません。本業の負債をこれで消してやると株や不動産に手を出した父親もバブル景気が弾けて大損をし始めたところに、南河内郡美原町での所有地の宅地開発も失敗して、負債を無くすどころか逆に増やしたものですから、破産を銀行からかけられぬように藁をも掴む思いで、それまでお互いに批判をしあっていた私たちも、ついには呉越同舟で霊園開発にそれぞれの再起を賭けなければならない羽目となったのです。

霊園事業とは行政による許認可事業であって、地方公共団体を除くと宗教法人などの公益財団にしかできません。父は最初共同で事業してくれるお寺さんを探しましたが、それが見つからないと、四国の親しい宗教家から神道系の宗教法人を譲ってもらい、自分自身が霊園の経営者になる気で、宅地開発に失敗したばかりの美原町の3千坪の所有地での霊園開発を大阪府に申請することになりました。

問題はその申請書には付近に住む住民の同意書が必要だったことです。無論一軒一軒の同意をとるのではなく、自治会単位でとれば良いのです。しかし私たちの事業の為には住民集会すら開く自治会がないまま、あっという間に一年が過ぎました。私はどんなにあがこうが一向に黒字にならない寝具の仕事など正直言えば、一日も早く廃業したかったのです。ところが周辺の住民の方々が、この霊園事業に同意していただけるその日までは止めるに止められないのだと知って愕然といたしました。

私は朝誰よりも早く市内の事務所に行き、得意先の加工指図書、出荷指図書、売掛金の台帳をチエックし、その後国道一号線を八幡の工場まで車を走らせては、現場での生産、出荷を監督し、夜には市内の得意先や仕入れ先を回ると言った毎日でした。自宅に帰るのはいつも深夜。地方を回って仕事をとるのも自分、集金に行くのも自分、原材料を調達するのも自分、毎日数時間の睡眠も許されない私にこれ以上どう努力すれば良いのでしょうか? また父親に仕入れ支払いの為、内緒に造った借金の処理のため、会社の売上入金を内緒で抜かなければならず、こんなことをせずとも済むように父親が本業の廃業を宣言してくれる日を私はひたすら待つしかありませんでした。もしこのことが会社の代表である父親に知れたら、私は懲戒免職。私の家族は路頭に迷うしかありません。

最早神や仏や先祖霊と言った「超常力」に頼る以外、道は無いではありませんか。一ヶ月に一度くらいしかとれない休みの日を使っては家族と西国三十三カ寺を車で回ったりしました。その殆どの観音様のお参りが終わった頃、私は大阪の紀伊国屋書店で観音様に導かれるように一冊の宗教書に出会ったのです。それが生長の家の創始者、谷口雅春先生のご著書、「生命の実相」でした。神仏に救いを求めると言っても、まだ私は宗教団体に入るつもりはありません。ただ私はボーイスカウトをしていた少年時代、付近のキリスト教会が団のスポンサーだった為、一時キリスト教に入信させられていたので日曜礼拝にも行かされ、そんな経験から自分にとって神様と言えば、キリスト教の神様なのか? 日本の八百万の神様なのか? それとも仏教の如来様なのか? 判らなくなっていたのです。ただ生長の家は万教帰一(ばんきょうきいつ)と言って、世界の総ての宗教はただひとつの真理を説き、改宗をせずとも良いという立場だったので、どの神様にも絞りきれない私にぴったりだという理由から、「生命の実相」だけは貪るように読み続けていました。

さてその「生命の実相」の巻頭には、神示(しんじ)と言って、昭和の初め、創始者に天下った神の言葉が書いてあったのですが、それが私の胸を強く打ち、その後の私の人生を大きく変えることになりました。そこには次のように書かれていました。

「汝ら天地一切のものと和解せよ。天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ。・・・中略・・・われ嘗て神の祭壇の前に供え物を献(ささ)ぐるとき、先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である。・・・後略・・・」(生長の家「大調和の神示」より)

神様は祈りを献げる前に兄弟と和解しなさい、と言われています。兄弟とは実の肉親だけでなく、この場合隣人の総てを指しています。隣人と和解せずに神に祈っても、その祈りは聞かれないということです。またこの「生命の実相」という書物は40巻のシリーズものであって、その第30巻にはイエス・キリストの山上の垂訓(新約聖書 マタイによる福音書)の解説があって、その中にこの言葉と同じ言葉が登場いたします。つまり「われ嘗て」とは、神が二千年前に山上で多くの群衆に垂訓されるイエス・キリストの口を通じて、我々人間に諭された、その時をさしていたのです。

でも私はこの言葉にひっかかるところがありました。なぜイエスは神に祈りを捧げる時、とは言わずに、神の祭壇の前に供え物を献ぐるとき、という様な表現をしたのでしょう? もしかしたらイエスの頭には聖書の「カインとアベルの物語」があったのではなかったのでしょうか? だから神様はいたずらに兄弟の中からアベルを選ばれ、カインの祈りは退けられたように見えるけれども、イエスはそうではなく、神が祈りを聞かれなかったのはちゃんとした理由があったからだ、と教えたかったのではないのでしょうか。

美原町小平尾での霊園開発の最初の申請から早一年の月日が流れ、私はとっくに付近住民の「同意書」をとることは諦めていました。条例をよく読みますと、どんな必要条件が満たされずとも、要は知事が最終的に許認可すれば、それでことが済むことになっていると私は気付いていました。だから私は住民には申し訳ないが、住民の同意書などなくても、どうか知事から霊園開発の許認可がいただけますようにと毎日神に祈っておりました。

その頃は宗教団体嫌いだった流石の私も、遂には「生長の家」の産業人の交流会である「栄える会」という団体に入って、生長の家の教えを学ぶようになっていました。親を裏切っているという罪悪感に苦しむ私には、人間本来のすがたは罪も汚れも貧しさも病も死もない神の子だ、と教えるこの宗教がたったひとつの救いでした。私は孤独に苛まれ、同じ価値観を持ち、同じ教えを学ぶ先輩や仲間を切望するようになっていたのです。

知事から同意書が無いまま霊園事業の許認可がいただけるようにと、「汝ら、天地一切のものと和解せよ・・・」の神示を108回写経したときのことです。不思議なことに大阪府の環境衛生課から父に霊園経営の許可証を出すから取りに来い、と連絡が入ったのです。申請から1年後の平成4年6月のこと。生長の家の神様は本当に凄い!と私は驚嘆したものですが、ところがそんな私の歓びは糠喜びだと判ってすぐに消沈してしまいます。なぜなら行政は父親に、付近住民の同意書が得られるまでは工事にも販売にもかかりません、と誓約書を書かせて許可証を手渡していたからなのです。それではそんな許可証なんて、何の価値もない紙切れではありませんか。

しかし考えてみたら、それこそが正にイエスの山上の垂訓での言葉、「生命の実相」の巻頭の神示の通りではありませんか。住民の同意書とは私たちと住民との和解のシンボルだったのです。住民という隣人兄弟と和解せずして、神に何を祈ろうが、神はそれを聞き届けられなかったのです。

けれども知事さんがたとえ条件付きでも霊園経営の許可証を出して下さったのは、大きな進展に繋がりました。申請地の南側の最も反対運動が強かったニュータウン側の住民集会がこれによってようやく始められることになったからです。

以後また一年半の月日が流れました。ニュータウン側の自治会とはその間に十数回話し合い、霊園の造成工事(住宅の二階からも見えない高い塀を巡らし、中を盛土にして住宅の二階の床よりも高いレベルに上げた霊園)や墓地にする面積(当初計画の70%)についても合意を得るようになっていました。協定書も交わしましたし、自治会の求めで公正証書にもいたしました。それでも同意書を出してはくれません。

理由はこうでした。この自治会とは反対側の北側の自治会の同意書も私たちには必要でした。ニュータウンの自治会はそちらから先に出してもらえ、と言うのです。ところが、そちらの自治会も向こうから先に出してもらえと言うのですね。これではいつまで経っても同意書は手に入りません。そのうち霊園経営の許可証の有効期限が来るかもしれません。

父親は遂に申請から2年後の平成5年8月、本業の廃業を私に指示しました。私は従業員を解雇し、工場を閉鎖いたしました。私はほっとしました。もうこれで私の良心を苦しめてきた父親への内緒ごとをこれ以上増やす必要はなくなりました。しかし数百万円、仕事でつくった借金の残金は、そのまま何の収入もなくなった私個人の借金となりました。

しかしどちらの自治会も結局は同意書を出す気配がなく、これでは八方塞がりでした。でもたとえ地上の四方八方に通ずる道は塞がっても、まだ天に昇る道は空いています。付近住民の皆様のそれぞれのご先祖を供養する施設を造るのですから、付近住民の公共の福祉に叶う事業をするのですから、決して自分の欲の為にするのではないのですから、と信じて諦めないことが肝心でした。私は先ほどの神示をもう一度読み直してみました。そこには続いてこうありました。

「汝らの兄弟の内、最も大なるものは汝らの父母である。神に感謝しても、父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ。・・・」(生長の家 大調和の神示より)

私の祈りは聞かれない筈でした。今まで和解しようと努めて来たのは付近住民だけでした。同意書が欲しかったからです。しかし私は和解すべき兄弟の内、最も大なる兄弟である父と心の奥底から和解してはいませんでした。本当に父と和解したいのなら、それまでの父に内緒にしてきた勝手な私の振る舞いを洗いざらい告白しなければなりません。しかしそうしたら私たちの関係もそれまでになるでしょう。それが怖くて私はどうしても正直に話すことができなかったのです。

ところが廃業して4ヶ月目の平成5年の暮れ、財形から生保からお金になるものは総て解約してでも借金の返済を続けてきた私も、廃業以後は給与もなく、妻がパートで得た僅かな収入で生活していたので、銀行預金をパンクさせてしまいました。それでついに私が会社の経営者たる者にあってはならない多重負債者であることが父に知れてしまいました。父はそれを知っても何故そのような借金ができたのかをまったく尋ねなかったのです。私は父親を根底から信じていなかったけれども、父は私を信じていたのでした。だから繁華街で遊んだり女を作ったりした借金でないことは知っていたのですね。

ここで正直に父に過去の過ちを謝ることができなければ、私は「神の子」どころか、「人間」ではありません。懲戒免職も、私の家族が住む家から放り出されることも覚悟して、私は父に真実を告白し、謝るしかありませんでした。

私は直接父に言うことができず、手紙を書いて私の罪を懺悔しました。それを読んだ父は私を呼びつけることもせず、黙って銀行に出かけて行き、それまで滞納していた私や他の数名の社員の給与資金を借りてきてくれました。私はその資金に母親が短期で貸してくれたお金を足して、不渡りにした金融会社の全社を回って残金の再契約に応じてもらいました。すんでのことでブラックリスト入りは免れました。私には経済的な問題が解決したことよりも何倍も父親に許されたことが嬉しかったですね。

すると神様は私の祈りを聞き届けて下さったのです。ニュータウンの自治会が、年が明けたら同意書をとりにおいで、と連絡してきたのは、すぐその後のことでした。翌平成6年の2月にはその隣の自治会も同意書を出そうと言ってこられ、めでたく美原に申請した私たちの民営霊園の造成工事を始めることができました。

長らく私の体験談をお読み下さった皆様には感謝申し上げたいと思います。それが正しい祈りならば、神は必ず聞き届けて下さるのです。        (完)