丸瀬工業の供養塔完成

「廃業・解散した丸瀬工業の企業墓を建てました」

このページを開けて下さったあなた様に感謝いたします。ただし開ける前のご期待には応えられないかもしれません。その場合はご容赦下さい。早いもので、ホームページを作って、9ヶ月という月日があっという間に過ぎました。加筆するのがこんなにも遅くなるなんて思ってもみませんでした。

さて私の半生の労力と情熱の大半を費やせておきながら、今となっては夢幻のように、跡形も残ってはいない「丸瀬工業(株)」という、本日が5年目の祥月命日である父が創業した寝具製造会社の「企業墓」を、私が現在経営している公園墓地、美原ロイヤルメモリアルパーク(堺市美原町小平尾)内に造りました。霊園経営のみに止まらず、霊園設計・開発業にまで仕事を広げた私は、今年は墓石小売店まで経営することになりました。父親が一代で築き、父親の死とともに消え去った会社の企業墓を建てようと思ったのも、ひとつは石材店を始めたことと関係があるのは事実です。

  沿革の碑文には、この会社が全盛期にはグループで年商130億円(連結ベース)を達成し、千名を超える従業員を抱えていたのに、昭和56年に毛布事業に失敗して和議(事実上の倒産)を出したことも、その後高級寝装品の消費者直販に特化し、再建に努力したものの遂には廃業し、創業者が亡くなる直前に解散したことも赤裸々に書いてあります。 企業墓は高野山や比叡山に多数ありますが、企業墓を建てようと発起された経営陣が、先輩の幹部や従業員の方々の労苦と貢献に感謝し、企業に縁のある物故者の霊を供養して、霊界からの波動をも味方にして今後の発展繁栄を祈ろうという趣旨でしょうから、廃業や解散してから企業墓が建つというのは少し奇妙なことかもしれません。奇妙ではなくても、前例は先ずないでしょう。倒産や廃業になると、その企業墓の資金を出すところが普通はなくなるからです。

寝具総合メーカー、丸瀬工業(株)が廃業して12年になり、霊園事業体の代表者を継承してから早5年になりますので、丸瀬工業の時代とは正直私も一線を画したいと思うようにもなりました。もしかしたらそんな思いは同社の発展を夢見て情熱と労働力をつぎ込んで来られた先輩方も同じかもしれません。
だが先輩の方々が丸瀬工業で働いておられた時の、会社を更に大きくしたい、会社の発展とともに自分の人生を更に向上させたいという思いが、往時はどんなに熱かったかと思い起こすとき、結果その意に反して職場を去らねばならなかった時の悔しさ、無念さ、腹立たしさを思うとき、それがどんなに前例が無い奇妙なことでも、一部は既にお亡くなりになっておられるのですが、そんな先輩の方々の熱い思いをもうここらで鎮魂していただきたく、前々から是非とも建てたいと念願していました。今回私が石材小売店の経営者になったこともあり、また丸瀬工業が和議を出す直接の原因となった泉州忠岡のアクリル毛布製造工場を従業員毎買って下さり、以後全国一の生産量を誇る毛布メーカーとなられた K社も既に廃業し解散しておられますし、丸瀬工業に原料を提供し、一部株まで持って下さったカネボウも、繊維関連の事業は整理なさり、化粧品部門も売却なさって、ファッション・ブランドとして親しまれたその名前が近い将来に消えることになって、このタイミングこそと思って長年の思いを実現させることになりました。

バブル経済がはじけた後の長期不況のあおりで、会社の倒産に遭われたり、長年勤めて来られた職場を去らねばならなかったりして、私たち丸瀬工業の社員と同じような辛い体験をなさった方々も多数おられることでしょう。そして同じ業界で職を見つけられた方もあれば、失職を契機にまったく違う職種を選ばれた方もあるでしょう。いずれの場合も、それまでの経験が、私の場合、個別訪問セールス、経理総務の実務、銀行折衝、販社にてのセールスマン管理などですが、そんな苦労や体験のどれもが皆様の現在の仕事や生活の上に役立ってはいないでしょうか? そのことを想うとき、人間の苦労には何一つ無駄なものはないのだ、と気づかせていただきます。そうではあるが、人間はいつまでも過去を振り返ってばかりはおれません。過去の成功や失敗に多くを学びながら、また過去に優しく勇気づけてくださったり、あるいは敵となり、鬼となってまで私を厳しく導いて下さった方々に感謝しながら、そして苦しく辛い体験そのものにも感謝しながら、勇気をもって未来に進まなければなりません。この企業墓を一里塚にして、新しい未来に向かって更に前進いたしましょう。