第七回 地下鉄新深江駅から近鉄八戸ノ里駅まで 後編

第七回 地下鉄新深江駅から近鉄八戸ノ里駅まで 後編

 「深江郷土資料館」を出て、国道308号線に戻ればお昼はとっくに過ぎていた。ガイドブックに紹介されていた「ご当地ラーメン」を食べさせる「高井田ラーメン店」に入った。人気店であることは、この日も待つ人が歩道に並んでいたので一目瞭然だ。麺はそばよりうどんに近い、とにかく太麺である。出汁はシンプルで濃厚な醤油ベース。私の印象はラーメンと言うよりも「中華そば」なのだが、でも食べたら癖になりそうなラーメンであることに違いない。ここは新深江の東に位置するが、言い換えるなら、近鉄布施駅から真っ直ぐ北に伸びる商店街「ブランドーリふせ」の北側の出口付近でもある。


 お昼を済ませ、国道を東へと歩き出す。長堂一丁目の交差点を越え、布施柳通の交差点を越えると、奈良街道は国道から離れ、細い道となって斜め北側に進む。その入り口には、ここが暗越奈良街道であると古道散策者に教える現代の道標がある。(右の画像)途中、地蔵堂を右に曲がり、すぐ左折し再び東へと進むと、JRのおおさか東線(久宝寺駅と放出駅を結ぶ新線)の高架に出るが、それを潜って更に東へと向かう。


すると高井田地蔵(左の画像)があって暫く歩くと長瀬川にやって来る。その手前にも西岸地蔵があって、この辺りは地蔵尊がまるで道標である。長瀬川は今こそ小さな水路に過ぎないが、大和川が付け替えられ、堺に流れる(江戸時代)以前は、この辺りに大和川が流れていた。だから奈良街道を、おっと奈良街道ではなく、その時代は日下道(くさかみち)と言ったかも知れぬが、東西に行き交う人がこの辺りで川幅270メートルとも言われた大和川を渡るには、渡し船に乗ることが多かった。地蔵尊の石仏が多く祀られるのも成る程と頷くところである。


 大和川の付け替え工事が完成した1704年、代わって新しい長瀬川が再生され、そこに架けられた橋が新喜多(しぎた)橋だ。長瀬川を渡ると石の新喜多橋道標がすぐ目につく。それには(西の)高麗橋元標(へは)二里二十丁、(北の)放出停車場(JR学研線放出駅)(へは)三十丁、(東の)枚岡(へは)一里三十三丁と、東、南、西の三面に彫られている。(1里は4キロ、36丁が1里だから、1丁(町)は約110m)
ところで新喜多(しぎた)の地名は、大和川付け替え後の新田開発者、鴻池十郎、鴻池七、今木屋兵衛らの名前から一字ずつとって「新喜多新田」と呼んだことに由来する。すると「ちょっと待った、新喜多大橋なら今里筋が寝屋川を渡る大橋を言うのに、随分離れた南の外れの橋まで新喜多橋と言うのはどうして?」と不審に思う人がいるだろう。実は「新喜多新田」は、江戸時代、この辺りから北西に今の第二寝屋川や寝屋川を越えて京橋辺りまで細長く拡がっていた。その管理センターである「新喜多新田会所」が今里筋と寝屋川が交差する地点のすぐ近くにあった。昭和30年に出来た鉄筋コンクリートの新大橋の名はこの由緒ある会所の名から付けたのだろう。だから長瀬川を渡した橋こそが「新喜多橋」であって、往時には珍しく石橋として造られた。今は往時の橋は跡形も無くなってしまったが、ここからそう遠くない所に付近の民家から移転された蕪村の句碑と共に、その二本の親柱が保存されているというから、少し寄り道することにする。


新喜多橋道標から奈良街道を離れ、北に1キロ程歩いて新喜多中学にやって来る。来る途中、考えた。今日は2月11日の祝日だ。休日で学校の敷地内に入れなかったら、ここまで歩いたことが無駄になるのではと。しかしそんな不安は徒労だった。中学校の正門は閉ざされていたが、新喜多橋親柱や蕪村の句碑を観に来る観光客の為に、学校北側の出入り口だけ親切に開けられていた。そして探すものは北のフェンスのすぐ近くにあった。
与謝蕪村(よさぶそん 1716年~1784年)は摂津国東成郡毛馬村に生まれ、俳人として茨城県、栃木県などで活躍し、芭蕉に憧れ、奥州を遍歴したこともあった。42才の時、京に居を構え、蕪村と号す。その後は死ぬまで上方で過ごした。そんな蕪村がこの辺りにやって来て、蛙の啼く声を聴きながら、一句詠んだと言う。
「日は日暮れよ 夜は夜明けよ と啼く かわす(蛙)」
蕪村の句が彫られた石碑は2本の新喜多橋親柱と共に並べられ、句碑の下部には蕪村が描いた蛙の漫画も一緒に彫られている。

奈良街道に戻り、更に東に歩くと、賃貸雑居ビルの「東大阪大発ビル」に突き当たり、ビルの南西の角、小阪北口の交差点で奈良街道は再び国道308号線に合流する。しばらく国道を東に歩くのだが、おもむろに私は国道(奈良街道)を後にして南へ南へと歩いた。
目的地は近鉄奈良線の河内小阪駅と八戸ノ里駅のほぼ中間点にある「司馬遼太郎記念館」だ。歴史事実としての勝敗を素直に受け、勝者の側に立って小説を書く作家が多い中、勝者も敗者も公正な裁きに掛ける独自の歴史観で書かれた司馬遼太郎の歴史小説は私も大好きである。又「街道をゆく」シリーズでは、私に歴史紀行文のお手本を示して下さった。この大作家を評論する能力など、私には無いが、ただ作家司馬遼太郎になる前の新聞記者、福田定一について、ここで少し触れておこう。実は、この章の前半部分で触れた「猪飼野」とも福田定一記者は深い関わりがあるからだ。


 大阪商大の敷地の横を通り、近鉄奈良線のガードを南に潜れば、後は立て札が案内してくれるので「司馬遼太郎記念館」は楽に見つけられる。記念館は近年、ファンの浄財を集め、元々司馬遼太郎が晩年を過ごした邸宅に隣接して造られたものだ。
先ずは庭から司馬(福田)氏の書斎を覗き込む。それから館内に入れば、司馬氏が生前大切に保存していた蔵書の数の多さに圧倒される。その多くが、司馬氏が小説を書くときに資料となったものだろう。勿論司馬氏の作品も多数展示されている。司馬(福田)氏の輝かしい履歴が、横に長いボードの上に活字となって、入館者の賞賛と喝采を享受する。私は司馬(福田)氏の年代記の中で、何故か数年間の記載が抜け落ちていることに気がついた。その数年とは、終戦を迎えた福田氏が産経新聞の記者になるまでの数年間である。


 司馬遼太郎の父、福田是定は1916年、薬剤師の資格をとり、ほどなく鶴橋本通り商店街に面する長屋(現鶴橋二丁目15番街区)で薬局を開業した。司馬遼太郎こと福田定一の生家(1923年8月7日に福田家次男として誕生)は、定説では浪速区塩草となっているが、年代からみて正しくは鶴橋本通りの長屋を生家とみるべきではなかろうか。
定一は誕生後、暫くして母の実家(奈良県北葛城郡当麻町)に預けられ、三歳迄そこで過ごすが、1927年、福田家が鶴橋から浪速区塩草に転居した折りか、その直前に家族の元に戻っている。1943年、大阪外国語大学(大阪大学外国語学部)蒙古語部を仮卒業した定一は、学徒出陣、満州の戦車隊配属(満州国牡丹紅省寧安県石頭の戦車第一連隊に配属。第五中隊所属第三小隊長となる。)を経て、栃木県佐野で終戦を迎えた。


その後、大阪に戻ったが、塩草の家は戦災で丸焼けとなり、仕方なく母の実家の親類に身を寄せることになる。その年(1945年)の暮れ、定一は靴を買うつもりで鶴橋・今里辺りの闇市を物色していると偶然、電柱に「記者募集」の張り紙を見つけた。その時、後ろから声をかけてきた初対面の大竹照彦と一緒に、付近のゴム工場の中にある俄作りの新聞社に応募し、二人とも採用となるのだ。この顛末は、氏のエッセイ集「司馬遼太郎が考えたこと」の第1巻「あるサラリーマン記者」(昭和30年9月記)に詳述されている。だがこの二人を採用した新聞社が「猪飼野のゴム製造業者街」にあったとは書かれているが、その社名も、何を目的とした新聞社だったのかも書かれてはいない。司馬氏は敢えて秘匿したのだろうか。この新聞社は「新世界新聞社」であって、経営者は柳洙鉉(ユ・スヒョン)という猪飼野でゴム製造業を営む朝鮮人だった。柳氏は朝鮮語の活字による「朝鮮新報」の創刊を念願していたようで、「新世界新聞」は、それが出来るまでの日本語新聞だった。


「朝鮮新報」は翌年6月に創刊され、7月にハングル版になったが、その頃、福田も大竹も同社を退社し、共に新日本新聞社京都本社に入社した。だがその2年後、同社は倒産。それから福田は産経新聞の京都支局に入社し、翌1949年、同社大阪本社に転勤した。その頃、取材相手として寺社周りや京都大学を担当し、桑原武夫、貝塚茂樹など京都学派を取材するなど、後の歴史小説やエッセイ執筆の種となる出会いがあったと言う。
1955年「名言随筆、サラリーマン」を発表。翌年司馬遼太郎の名前で応募した「ペルシャの幻術師」が講談倶楽部賞を受賞。1958年、司馬遼太郎として初めての著書「白い歓喜天」を発表。翌年、産経新聞記者、松見みどりと結婚。1960年、小説「梟の城」で直木賞を受賞。1961年、産経新聞社を退職し、作家生活に入った。
実は司馬遼太郎は、1950年、最初の結婚をしていて4年後に離婚した。生まれた息子は実家に預けたようだが、この結婚・離婚については、彼は生涯語らなかった。画像は館内が撮影禁止なので、入場時に貰えるリーフレットの写真を使用。

16年間続けた記者生活を捨て、作家生活を選んだ司馬遼太郎こと福田定一。先程紹介した「司馬遼太郎が考えたこと」第1巻の中の「影なき男」(昭和30年5月記)を読めば、彼がどんな思いで記者生活を続けていたのか、大凡を知ることができる。
「(新聞記者達)の生活の軸をなしているものは、ニュースという奇怪きわまりない気体なのである。・・・(略)・・・空虚と言えば、これほど空虚な仕事はない。ところが、新聞記者という一種想像を絶した奇怪な動物は、この気体を追うのに全生活を賭けている。・・・(略)・・・つまり影をもたない、いや、もともとは持っていた影をニュースという神に捧げ渡した男の群れが、新聞ジャーナリストというものなのである。」
「司馬遼太郎記念館」で15分くらいを過ごし、近鉄八戸ノ里駅に向かった。時刻は午後4時だった。