第十八回 街道終点の橿原市今井町、畝傍御陵、橿原神宮
第十八回 街道終点の橿原市今井町、畝傍御陵、橿原神宮
いよいよ歴史街道、聖徳太子所縁(ゆかり)の竹内街道歩きの最終の日を迎えた。街道歩きのガイドブックなら竹内街道の終点を橿原市の寺内町として歴史的景観を今に残す「今井町」にしている。私たちは今井町での風景撮影を前々から楽しみにして、天候が優れない日を避けて来た為、この最終回の街道歩きだけは何度も日延べが繰り返された。
平成29年12月2日土曜日、一緒に歩くメンバーをSNSで公募したが、結局常連メンバーの野瀬、岡田と、途中参加の田原の3名だけの参加だった。近鉄橿原線の八木西口駅で降りて、私と岡田君二人は付近のJRまほろば線こと桜井線の畝傍駅まで歩き、畝傍駅発9時13分発の列車で隣の金橋駅まで行って、そこから私たちは東に向いて昔の竹内街道と重なる国道165線を東に歩いた。やがて国道24号線を交差すると国道は166号線と名を変える。その辺りで左手に小さな神社の杜を見つけた。付近の方がお二人、境内の清掃に余念がなかった。
今井町の西の境界が近づくと国道を外し、住宅地を北に歩く。さてそもそも竹内街道はなぜこの先で終了するのだろう。国道166号も、その先はT字路に突き当たり、それ以上東に進むことはできない。その先は藤原宮の跡地だ。私は想像する。古来竹内街道は大和青垣山に突き当たるまで真っ直ぐ続いていただろうと。終点は、推古(すいこ)天皇(敏達(びたつ)帝皇后)が即位する迄の本拠地、たくさんの人が商取引に集まった海柘榴市(つばいち)であったのではないか。その先はもう伊勢へと続く初瀬街道である。又街道の終点の間際で南の飛鳥(あすか)の都に行く路と分岐したのだろう。ところが後の白鳳(はくほう)時代の絶対君主である持統(じとう)天皇の御代(みよ)になると藤原京建設が始まり、宮都と重なる部分は街道が消されてしまったのではないだろうか。私たちは寺内町今井町の西の入口に差し掛かるが、今井町が元は環濠集落だった名残をその入口に見る。
歴史的景観保存地区に指定された今井町は約800軒の民家から成ると言われる。その中で代表的存在が今西家である。今も残る西側の環濠を越えて町の中に入ると、先ず目に入るのはひときわ広大な敷地に城郭に見紛う程の豪壮な建造物を構える今西家の屋敷「今西家住宅」である。記録に寄ればその中の最も古い建物は慶庵3年(1650年)の建立である。
今西家は代々惣年寄を勤めた家柄で、大和の戦国大名「十市氏」の一族、河合権兵衛清長が永禄9年(1566年)に今井町に移住し、三代目から今西姓を名乗った(向陽書房「竹内街道」横田健一著)と言われている。今井町を造った兵部の一族は今井の姓を名乗った。後の堺・泉州で豪商になった今井もこの同族である。今に残る泉州の毛布屋さんにも今井姓が見える。
一方奈良市内には清酒「春鹿」をつくる今西酒造がある。こちらの出身は同じ南大和でも三輪の古き酒屋であるが、今井の今西家とは遠い親戚なのだろうか、それともまったく他人なのだろうか。
寺内町とは浄土真宗を中心とする宗教自治都市であると習ったが、室町時代末期に蓮如が現れ、鎌倉時代に親鸞が興した浄土真宗が一挙に全国に拡がった。そしてその信徒の団結力のエネルギーは蓮如の意に背いて為政者へと向けられ、各地で一向一揆、土一揆となって暴発した。
やがて蓮如は越前の吉崎御坊を拠点にし、その後は京の山科に本願寺を建てて拠点とし、明応5年(1496年)に摂津石山(後の大坂)に城郭都市の石山本願寺を建立し、本拠地として全国に寺内町を造り続けたのだ。
畿内で有名な寺内町は、滋賀県森山の金森御坊、京の山科本願寺、大阪天満の天満本願寺、堺市北区の金田、高槻市の富田、和泉の貝塚、八尾の久宝寺御坊と八尾御坊、富田林御坊、尼崎、大和高田等々である。
今西家から東に歩いて行くと一軒の民家の持ち主(上段右の写真)が表に出て来て、私たちに今井町も歴史や現況について説明をして下さった。私たちと記念写真をとお願いしたが、それは断られた。下段左の写真の寺は称念寺というこの寺内町の核となる浄土真宗の寺である。ただいま改築中で、完成までまだ10年かかるとか、言われている。
途中から近鉄の八木西口駅から駆けつけた田原君が合流する。さて民家の中には内部を観察できるものが数カ所あった。江戸時代にタイムスリップしたようだ。今井町には国指定になる重要文化財の民家8軒と、奈良県指定文化財の民家1軒がある。前者は豊田家住宅、音村家、中橋家、旧米谷家住宅、上田家住宅、河合家住宅、高木家住宅であり、後者は旧上田家住宅である。
今井町の南に大和三山のひとつ、畝傍(うねび)山が見える。歴史ある町の散策をそろそろ終えて、そちらに向かって出発する。
先ず立ち寄ったのは、畝傍山の北端にある、我が国二代目の天皇、綏靖(すいぜい)天皇の御陵だ。最初宮崎県におられた神武天皇はヤマト建国の軍を率いて瀬戸内海を東に進軍し、一旦は河内湾から上陸しようと試まれたが、登美の長脛彦の軍の抵抗にあって失敗し、熊野に回って再び上陸し、紀伊半島の南の深い山々を縦貫して、宇陀から大和盆地に入られた。その時に合体したのが、三輪山山麓に住んで神を祀るのを業としていた出雲王族の末裔だった。神武天皇は故郷には妻がいたし、長男も連れて来ていたが、大和平野の諸豪族を武力で平定して大王(おうきみ)として即位なさる時に出雲王族の末裔、即ち大国主命直系の姫君を改めて皇后とされたのだ。その子が綏靖(すいぜい)天皇である。
さらに南へと歩いて畝傍(うねび)山の東山麓に広大な敷地をとる畝傍御陵、即ち我が国初代の天皇、大倭(ヤマト)国の建国者、神武天皇の御陵に参拝する。
両側の杜の高い木立に挟まれた長い玉砂利の参道を歩き、最後にぱっと広い平地が拡がる。他の天皇陵には感じられないほどの崇高さと厳かな雰囲気がここにはある。
さてここでお昼時間を回ったので、昼食をと思って最寄りの近鉄畝部御陵前の駅前まで歩いたが、食堂やレストランが見つからず、一旦近鉄電車に乗り、次のターミナルである橿原神宮駅まで行って、駅ナカのレストランで昼食をとり、以後の歴史博物館と橿原神宮参拝の順序を逆にした。
かなり遅めのお昼をとった後、3名は橿原神宮に参拝した。桜井の大神(みわ)神社とは違い、橿原神宮は太古の昔からあった神社ではなく、明治以降大正昭和にかけて学徒動員などをして政府の主導で造られた神社である。即ちここがこの日本の初代の神武天皇が即位した土地、大倭(ヤマト)建国の地である、というので、そこに最高の位の神社、神宮を国を挙げて造った訳だ。
神武天皇が今の橿原市辺りで即位したという故事を否定する訳ではない。ただ奈良県民にはこの地を嘗て「かしはら」と呼んだ記憶がない。神武天皇が即位して呼ばれた「磐余彦(いわれひこ)」の「いわれ」という古代の地名には聞き覚えがあるかもしれない。橿原は古事記、日本書記にのみ登場する王都だ。しかも記紀神話に現実を合わせるように、この神宮や付帯する参道や杜や公園を造るときに、多数の出土品を出した集落遺跡を総て破壊したと伝えられている。今に思えば大倭国誕生の真実を知る為にも残念な話ではないか。
この日最後に平城京の発掘で一躍有名になった橿原考古学研究所が運営する歴史博物館を訪れた。大和盆地の中の石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、白鳳時代の発掘品を展示している。展示品を観察して思うことは、日本の国の成り立ちは謎だらけであるということだ。発掘品については説明できないことがあまりに多い。それらを総て横に置いて、謎には目を瞑って、国の歴史について作り上げられた定説にしたがって、私たちは歴史を教えられているだけである。
街道歩きから話は脱線するので、この話はここで終えるが、聖徳太子が外国の使節が来朝した時に、この路を歩かせて難波の港から飛鳥の都に呼び込むために国力揚げて造った竹内街道をこれですべて歩いたことになる。
その中で昔のままの風景が残された箇所を幾つも発見できたのは嬉しかった。(竹内街道 完)