第十六回 上ノ太子駅から竹内峠まで 

第十六回 上ノ太子駅から竹内峠まで

土師の里駅から允恭陵、仲津媛陵、応神陵、白鳥陵を見て石川を渡り、大黒寺や壺井八幡、河内源氏三代の墓を参拝し、叡福寺の聖徳太子の御廟を参拝して上ノ太子駅まで歩いて、あっという間に1年の月日が流れてしまった。

平成29年6月1日に、それに続く竹内街道の歴史ウオークを1年ぶりに企画したが、前回のメンバーで参加したのは岡田氏ひとりだった。

朝早く近鉄南大阪線を阿部野橋駅から上ノ太子駅まで乗って、バスで竹内街道、現在の国道166号線を進むこと数分、太子町役場前から歩くことにした。バスはこの後、叡福寺に向かうので、前回の街道歩きの最後に乗ったバスを今回は逆方向に乗ったことになる。

叡福寺に向かって少し歩いて細い路地を左折するとそこに用命天皇陵がある。そこで私たちはリュックを担いだ若い一人の歴女さんとすれ違った。用命天皇は聖徳太子の父君である。先帝の敏達(びたつ)天皇は大の仏教嫌いであったが、用命天皇(母、蘇我堅塩媛)は妃の間人(はしひと)中宮(母、蘇我小姉君)先帝の敏達天皇(母石媛欽明皇后)、その妃であって後の推古天皇(母、蘇我堅塩媛)、後の崇峻天皇(母、蘇我小姉君)ら四名の皇族と共に欽明天皇が生んだ5人兄弟のひとりで、大の仏教好きであった人物である。従って聖徳太子は母が違う兄妹の近親婚で生まれた子になる。

バス通りを元来た方向に戻り、太子町役場の前から元来た六枚橋に引っ返し、国道166号線を先に進むが、次の交差点「六枚橋東」で国道と分かれて、国道と平行した北側の山沿いの少し細い道を東に進む。地図によっては国道を竹内街道と記載するのもあるが、この民家に挟まれた昔の面影を残す細い道こそが竹内街道がそのまま残った道路なのだ。


私は竹内街道の中で、この太子町六枚橋東から道の駅近つ飛鳥の里・太子までの1キロ余りの古道が一番好きだ。今も江戸時代の雰囲気を残しているからで、ここばかりは歴史的風景を存分に楽しみながらゆっくりと歩くべきとこである。

この道を歩くとき、孝徳天皇陵と竹内街道資料館は共に街道から外れた位置にあるため、うっかりとパスしないように注意しなければならない。

孝徳天皇陵は街道から左に曲がって小高い丘の上にある。孝徳天皇の時代も、その業績も知らない人が多いだろうと思われるが、ご存じ、日本を天皇制律令国家に変えた大化の改新の詔(みことのり)を、あの大阪市内中央区大手前の今や広大な史跡公園になっている難波宮で全国に向けて宣言したのが、この孝徳天皇だ。

姉が皇極・斉明天皇。舒明天皇皇后である。父親は皇族、茅渟(ちぬ)王、母は同じく皇族の吉備津媛。この両親について日本書紀には何の記載もない。そんな出生のよく分からぬ方が姉弟揃って日本の天皇になられた。私はとても不思議だと思っている。しかもこの吉備津媛のお墓は、明日香村の外れ、昔檜隈と言われ、欽明天皇陵とともに朝鮮半島からの渡来人が多数棲んだ地区にある。

私は科学的ではないが、直感的にこの吉備津媛様とは、もしかしたらこの方で、理由があって日本に亡命されたのではないかと推理している。吉備(岡山県)とは正にその亡命先なのだと。私が勝手に想像するその方のお爺様の名こそが新羅のチヌ王であり、夫は百済の武王である人物だ。そんな高貴な方のお子様だから、姉弟ともに日本の天皇になってよいのだと時の権力者が考えたのでは?と。あくまで私の想像である。


孝徳天皇の世は永くは続かなかった。飛鳥にいる蘇我氏を倒した中大兄皇子と難波宮政府との関係がぎくしゃくし出すと、官僚達もそして皇后までが浮き足立って飛鳥に走ったのだ。ひとりぼっちになった天皇は難波宮で悶死したと伝わる。

孝徳天皇陵を後にして更に竹内街道をゆっくりと東に峠を目指して登って行く。

さて六枚橋東の分岐点から1キロ弱歩いたところに次の目的地の竹内街道資料館がある。

ここでは街道に関する多数の展示資料が有り、古代の竹内街道を様々な角度から見ることができる。

また一室では、叡福寺の太子廟を開封した昔の写真が展示されている。ここでしか見ることができない貴重な資料である。

この後、国道166号線と合流し、日差しの強い中を辛いロード歩きが続いた。

半時間ばかりロード歩きの後、やっと二上山の登山口に到着。そこには大きな駐車場や休憩室もある。ランチも食べられる。

弁当を持たずに来た岡田氏はそこでランチを、私はアイスコーヒーをいただく。

店の人から峠までは後10分余りだと教えられ、頑張ろうという気になった。

しかしこの日差しの強い日に、アスファルトロードの登りはきつい。

竹内峠に近づくと国道の左手に宝篋印塔が。誰か高僧のお墓だろうか。後ろは二上山だ。この当たりからアスファルトの国道を右に分かれて昔ながらの街道道を峠へと進む。

 


竹内峠にも何時の時代か関所があったようだ。鶯の関跡という石碑が建つ。この辺りから奈良県側に入る。

 

 

 


鶯の関跡のすぐ東側が公園になっていてハイカーには格好の休憩所、お弁当を食べる場所になっている。

私はここで持参したお弁当を開ける。

時刻はお昼を少し回ったところだ。

街道歩きは午後もまだまだ続く。今日の目的地は近鉄大阪線の大和高田駅である。