第十回 地下鉄新金岡駅から近鉄藤井寺駅まで 後編

第十回 地下鉄新金岡駅から近鉄藤井寺駅まで 後編

 バス停、野村の前にある日吉神社をお参りした後、街道の跡を追って路地に入り、東へと進む。その路地は若干江戸時代の雰囲気を残していた。樫山の集落を抜け、東除(ひがしよけ)川を渡れば西藤井寺線と交差する。街道はそこから斜め左に向きを変え、伊賀とはびきのニュータウンとの境界に沿って東へと進み、野中寺(やちゅうじ)がある辺りで堺羽曳野線に最も近接する


 お昼時間が近づき、次の目的地が野中寺だったことから、街道をそのまま進まず、左折して北に歩き、堺羽曳野線との交差点、向野南を右折し、この辺りで有名な和食店、喜多八さんで昼食をとることにした。その後街道には戻らず、堺羽曳野線を東に歩き、目的地、野中寺に着く。
野中寺(やちゅうじ)、由緒書きには聖徳太子による創建の寺とあり、そう信ずる地域の人々からの信仰を集めるが、実のところは百済系の船、津、白猪(しらい)などの渡来氏族の氏寺として創建されたことが東大寺の「正倉院文書」によって明らかにされている。


 その後、南北朝時代の戦いで焼失し、室町時代に再建されるも、再び江戸時代、火災で焼失し、享保9年(1724年)、大和郡山城主、柳沢吉里(将軍綱吉御側用人、吉保の子)によって再建され、今日に至っている。つまり飛鳥時代の誰の創建かと議論しても、今日目の前にある伽藍は300年前の江戸時代のものである。
この寺の墓地には、有名なお染久松の墓がある。江戸時代から人形浄瑠璃や歌舞伎ではやされてきた、道ならぬ恋の果てに心中した豪商の娘と丁稚の墓である。

芝居になった物語はこうだ。武家の遺児だった久松は、野崎村の百姓に養育され、奉公先の大坂質店、油屋の娘、お染と許されぬ恋におちる。娘のお染の山家屋への嫁入りを決めていた油屋は、久松を解雇し実家に帰した。そこでは久松の許嫁だった、育て親の実の娘、お光が祝言の日を待ちわびていた。そこに野崎観音参りにかこつけ、一人で久松を訪ねて来るお染。二人の死を覚悟した仲を察したお光は、久松との祝言の日に髪を降ろして尼となった。お染、久松は、このような周囲の溢れる配慮にも背き、遂に心中を遂げるのだった。1710年、あるいは1708年のこことされている。


 現代人には、結婚が許されぬからと心中する気持ちは少し理解し難いものかもしれぬ。それぞれの時代の人の心を覗いて比較をしてみよう。現代人にはその純粋さに感動するよりも、どちらかと言うと、もどかしさ、未熟さを感ずるかもしれないのだ。しかしお染さんの様に、裕福な生活も何もかも捨て、一緒に死んでくれる恋人が現代人にいるだろうか。この心中は決して創作物語ではなく、本当にあった歴史事件なのである。生活が豊かになった分、人は幸福になった筈だが、幸福を財貨の量で量ってしまいがちな現代人は、本当に江戸時代の人間より幸福になったのだろうか。


 さて街道を後にして西藤井寺線を北に歩く。そろそろ帰り支度である。途中、御陵前のバス停を右折する。すると密集する住宅地の中に大きな前方後円墳が現れる。岡ミサンザイ古墳、河内王朝の祖、応神天皇(ホムタ・ワケ大王)の父、仲哀天皇(タラシナカツヒコ大王)の陵墓と伝わるが、最近の調査によって築造年代は5世紀後半と推定され、西暦390年に即位した応神天皇の父親の御陵と考えるのは無理があるようだ。ではこの御陵は誰のものか(応神天皇より半世紀以上後の時代の天皇か皇族の筈)は後日改めて考察を続け、仲哀天皇の本当の御陵(4世紀半ば以前に築造された御陵)を別に探してみよう。


 御陵堀端の道を北に進むと辛国(からくに)神社に出る。由緒書きには、約1500年前の雄略天皇(オオハッセ・ワカタケル大王)の時代、物部(もののべ)氏がこの辺りに領地を賜り、同族の辛国(からくに)氏がこの神社を創建したとある。
変な名前だと思う。由緒書には触れていないが、古墳時代にはこの辺りに多数の渡来人が移り住んだ。野中寺を創建した一族、白猪(しらい)をハングル読みすればペクチョ、つまり百済(ペクチェ)と読み方が似るし、辛国も韓(から)国(韓族の国=新羅)の意味なのか?とつい疑ってしまう。


更に北に歩くと西国三十三所第五番の葛井(ふじい)寺に着く。境内を抜けると藤井寺駅だ。8世紀になって聖武天皇の勅願で行基が創建したとも、渡来人、白猪(しらい)氏改め葛井(ふじい)氏が創建した寺とも伝えられる。平安時代後期から観音霊場として知られるようになり、往時は東西に二棟の三重塔が並ぶ薬師寺式伽藍であったのだが、何度も兵火に焼かれ、現存する建物は近世以降のものだ。本尊は乾漆(十一面)千手観音坐像であり、1952年に国宝に指定されている。
私たちは近鉄藤井寺駅で解散したが、時刻は午後の3時であった。