第三回 七道駅から堺駅まで 後編
第三回 七道駅から堺駅まで 後編
土佐藩と明治政府の為にと「籤引き」で切腹を命じられた壮絶な11烈士のお墓がある宝珠院から南に向かい、堺大和高田線を右折し、阪堺線花田口駅方面に向かった。住吉大社から南下し、大和川を渡って来る紀州街道は、この辺りでは中央に阪堺線の路面電車を走らせる程に60メートルにも道幅が拡張され、故に紀州街道ではなく今は「大道筋」と呼ぶようになっている。
この大道筋に面して花田口駅の西側にはザビエル公園がある。南北100メートル、東西150メートル程の公園である。花壇の手入れも行き届き、緑豊かな公園で、どこかの幼稚園の遠足だろう、保母さんらしき若い女性が園児たちを多数連れて来ていた。
ザビエル公園という名称は、最初にキリスト(天主)教を伝えたポルトガルの宣教師、フランシスコ・ザビエルに因んだもの。またこの公園は、自らも改宗し、天主教の宣教師を支援した豪商、日比屋了慶の屋敷があったところだ。
公園の西側には内川が流れ、その向こうは戎島、築港と陸地が続くが、戦国時代の堺港の岸壁は今の内川辺りにあった。つまり豪商、日比屋の邸宅は、三階建ての高楼を構え、堺港の真正面に陣取っていたのだ。だが「黄金の日々」を支えた堺の豪商の一翼を担った日比屋家も、秀吉の切支丹(天主教)禁制と共に廃れて行ったそうである。
次に訪れたのは大道筋から東に入った菅原神社。南海本線堺駅から東に進む大通りは、「大小路(おおしょうじ)シンボルロード」と言われるが、それが正に堺から南大和に東進する竹内街道の出発点であって、その北側を北荘と、南は南荘と言った。菅原神社は北荘の氏神になる。ご神体は道真自身の作になる木像だそうで、延喜年間に堺浜に流れ着いた木像を地元の人が見つけたのが由来という。
再び大道筋に戻り、西の歩道を南に歩きながら、明治、大正、昭和の時代を生きた女流文学者、与謝野晶子の生家跡を探した。生家跡と言うからには、この商業ビルが林立する中、どのような保存状態なのか、と探し歩くも、彼女の生家も拡張された大道筋の下になって消えていた。フエニックス通りの少し手前(北側)だが、複数の晶子の祈念石碑が歩道に並べられている。
(画像は、フエニックス通りを渡った処にある堺市立歴史博物館「さかい利晶の杜」に展示される、晶子の生家、和菓子の「駿河屋」の店頭である。「さかい利晶の杜」には6月4日に訪れ、この写真はそのときのものだ。)
そろそろお昼に近くなったが、最後に訪れておきたかったのは、千利休屋敷跡だった。フエニックス通りを南に渡って、西に1本目の路地を南に入ったところにそれはあった。千利休、安土桃山時代に信長、秀吉に仕え、三千家茶の湯の創始者である。
屋敷跡と言っても、利休が使った井戸の周囲10メートル四方のみが残るだけだが、それも生憎中は改修工事中だった。しかしカメラを井戸に向けると作業員たちは親切にも慌てて手を休め、カメラの視界の外に姿を隠してくれた。
私たちは南海本線堺駅に戻り、そこでO氏と別れ、私は近鉄松原駅行きの南海バスに乗って職場に戻った。