第十三回 9日間の街道歩きを振り返って

第十三回 9日間の街道歩きを振り返って

公私多種多様なことが大凡一段落し、やっとブログ「野瀬泰良の街道を行く」の暗越(くらがりごえ)奈良街道編を完結させる時間を得た。書店でふと街道散策ガイドを手に入れたことが機縁で、幾つかの街道の起点である高麗橋から暗越奈良街道を自分の足で歩いて歴史紀行文を書いてみようと思い立ったのは昨年の11月。以後12月に2回、年が明け1月に1回、2月に1回、5月に2回、そして6月に暗峠を越えて奈良県に入り、暫く夏の暑さを避け、10月に大和郡山の城下町に着いて、この歴史散策を1年がかりで終えることになった。通常なら2日か3日の道中だろうが、それを街道の周辺まで足を伸ばして様々な歴史の足跡や名残をこの目で確かめ、帰宅してはインターネットや書物で調査・研究しながら、9日間を要して歩いた訳である。


 街道の整備は期待以上の状態で、道標もしっかりしていたし、昔の風情有る景観を残す処が多数あったことや、またその周辺には見るものが多かったので、街道歩きはまったく退屈しなかった。江戸時代の一時期、お伊勢参りが爆発的に流行し、この街道の往来が更に盛んになったと伝えられるが、往時の人々も道中脱線しながら観光に勤しんだことだろう。加えて道中に立ち寄った、東成区の「大阪セルロイド会館」、菅笠や鋳物鉄瓶を展示した「深江郷土資料館」、八戸ノ里の「司馬遼太郎記念館」、大阪商業大学のキャンパス内にある「大阪商業史博物館」、大和郡山城内にある「柳沢文庫」に展示された資料の中には、私には目から鱗が落ちる程に勉強させられたものが多数あった。


  ところで私はこの街道を少し歩き出したところで、とんでもない街道を選んだことに気づき、慌ててしまった。街道は玉造から今里へと、昔「猪飼野」と言われた特別な地区の周囲の境界を舐めるように進むことに気づいたからである。特別な、と表現したのは、ご存じの通り、在日韓国人が際だって多く住む地域だからだ。今は「猪飼野」の地名は使われない。それは地名を差別用語にしないようにとの行政の気遣いに違いない。
ことさら在日社会のことには触れずに進むこともできた。しかし私は敢えてその地の歴史に触れようと思い、先ずは「猪飼野」の歴史を勉強した。その歴史は驚く程古かった。この地に朝鮮半島の人々が移住するのは、歴史上二度あったことも分かった。しかもこの地の中に大昔から大和川の分流であった平野川が流れ、それがしばしば氾濫し、日本人には住み辛い地であったことも知った。


日本人には住み辛かった猪飼野を、敢えて起業の地としたり、宅を構えたりした、現パナソニックの創業者、松下幸之助や、コクヨの創業者、黒田善太郎、ロート製薬の創業者、山田安民や、ニチボーの前身、尼崎紡績の福本元之助についてもこのシリーズの中で触れさせていただいた。
しかし司馬遼太郎の場合、「猪飼野」に生まれ、戦後の記者生活の出発点になったのも「猪飼野」の在日社会だった。だがそのことには生涯触れなかったことも書いた。
また今里の町の一角に「片江」という落語家や漫才師が多く住んだ町があったことは、そこが今の吉本興業所縁の地であることも街道を歩いて初めて知ったことである。


今回の散策で思い知ったことは、暗越奈良街道周辺の歴史を学ぶことは、大阪の歴史そのものを学ぶことであったことだ。大昔は上町台地以東には生駒山地の麓まで拡がる広大な湖があって、そこに淀川も大和川も流れ込んでいた。それが時代を下るに従い、少しずつ小さな沼地になって行くのだが、淀川、大和川の氾濫は常にそこに住む人々の生命と暮らしを奪って来た。氾濫から農民を救う為の大和川の付け替え事業は、思わぬ方向に歴史を展開させたのだ。それが後に大坂の町をして繊維工業の一大産業都市へと発展させて行くことになるとは、誰が想像したであろうか。


徳川幕府による大和川の付け替え事業への多大な投資の回収意欲が、元の河川や沼地を埋め立て、木綿の耕作地として売却することに加えて、農民に納めさせる税を米だけでなく、木綿の紡績糸や生地を売却した貨幣での支払いを可能にした。そこで河内平野は一大木綿産業の地域となった。しかし木綿の耕作には大きな落とし穴があった。木綿は何年かに一度の土質改良をしなければ連作ができない作物なのだ。土質改良の肥料を大坂の商人から借りる度に、河内の農民は大坂の商業資本の傘下に下ることになる。大坂の商人が巨大マニュファクチュアを稼働する産業資本家へとステップアップする過程である。


暗越奈良街道の宿場町として整備されたのは、東大阪の松原宿だけである。そして現在はその面影すらも残ってはいない。思うに、この街道の東大阪を通る辺りは、戦国時代以後に付けられたのではないかと私は考える。松原宿もその頃整備されたのだろうと。では誰が整備したのかと言うと、大和郡山城主の豊臣秀長大納言ではないだろうかと。それ以前はその辺りは沼地で、大和から生駒山の暗峠を越え、西山麓を南北に走る高野街道の箱殿まで下ると、一旦南に迂回しなければならなかったのではないだろうか。大昔から松原宿があったのなら、そう簡単にその景観が消えるものではないだろうと思うからだ。


最後に生駒山の暗(くらがり)峠を挟んで、大阪府側の街道と奈良県側の街道では全く違う道であることに触れておきたい。もし車で暗峠に登りたければ、多くの人は奈良県側から登ろうとするだろう。奈良県側の道は車で十分対向できる道幅があるからだ。しかしそれは昔の道を拡幅し、改造してしまったことを意味している。
また本編にも書いたが、暗峠で生駒信貴スカイラインと交差するところで、歴史街道がスカイラインの下の地下を潜っているのは、実に腹立たしい。現代の道が地下に潜れば良かったのだ。歴史的景観は壊すのは容易いが、保存するのはコストもかかり、困難なことだ。しかし歴史を忘れる国は滅びると言うではないか。歴史を忘れることは、民族の先人の業績を忘れ、その誇りを失うことになるからだ。

次回は古代のメインストリートと言われる「竹内街道」を歩こうと思う。実はもう前月に当麻寺から上ノ太子駅まで二上山経由で歩いたのである。正月休みにその日のことを紀行にしようと思う。