第四回 玉造駅から地下鉄今里駅まで

(前書)昔、猪飼野と言われた地区の大半が今の生野区に属するが、2011年9月の調査では、生野区の総人口は凡そ13万3千人、内外国人登録証を持つ外国人永住者が2万9千人である。外国人は99%が朝鮮民族だ。だから凡そ四人に一人が朝鮮民族ということになる。ショートステイーの人も入れると更にその比率は上がるだろう。猪飼野と言われた地区の特色は、異国の人が多数棲んでいることだけではなく、手に技術を持った人が集まり、“ものづくり”の町として発展した地区であったことを忘れてはならない。
猪飼野で、工場で汗まみれになって”ものつくり”をする親と共に幼少年期を過ごしたり、窮乏の一時期を猪飼野での狭い借家生活に耐えたり、この地の外国人と組んで敗戦の泥沼から立ち上がったりして、“ものづくり猪飼野”で能力を高め、実力を付けて、世に羽ばたいて行った日本の著名人が複数いることに注目すべきである。パナソニックの創業者、松下幸之助、コクヨの創業者、黒田善太郎、作家の司馬遼太郎、評論家の竹村健一などである。

第四回 玉造駅から地下鉄今里駅まで

 天皇誕生日の12月23日、昼過ぎまで市内で団体の祝典行事に参加した後、近鉄とJRを乗り継いで玉造駅へと移動する。散策に出発する前に駅構内の飲食店で簡単に昼食を済ませた。時刻は午後1時。今日は玉造駅から長堀通り南歩道を東に歩くことになる。先日にも見た「二軒茶屋跡」の石碑から車道を渡ると、すぐに斜め右に入って行く路地があった。「暗越奈良街道」の入り口を示す道標を見ながら、路地に入るとレトロな街灯とカラフルなインターロック舗装が始まる。
途中、矢田地蔵尊と書かれた木造の祠があった。名の由来は紫陽花で有名な矢田寺にある。奈良街道は、その昔安土桃山時代に関白秀吉の弟、秀長が大和郡山(こうりやま)城主になると豊臣家家中の者たちが頻繁に往来するようになって、結果街道の整備が進んだ。その頃誰かが矢田寺からこの地蔵を持ち来たった。八月の地蔵盆には今でも矢田寺の僧侶が供養に訪れるそうである。

 インターロックの道は疎開道路で途切れる。北側の長堀通りに戻って玉津一丁目の交差点を北に渡った後に今度は東に疎開道路を渡ると、交差点から少し折れて今里交差点に向かって南東方向に進む長堀通りの北歩道を50メートルも歩くと、斜め左に分かれて真直ぐ東に向かう広い道がある。それが奈良街道であることを確かめて、進路をそちらに取る。住宅地の中を100メートルも行くと、明治35年に設置された「暗越奈良街道距高麗橋元標壱里」の道標があった。一番下の「里」の文字が何度も重ねられた舗装で下半分地中に埋まっている。
再びここで脱線して左折する。車一台がやっと通れる路を北に歩くと八坂神社と彫られた二本の石の柱が、両サイドに立っていた。よく見れば、鳥居の上部が壊れ落ちたのを修理せず、放置しているのだ。更に北に進むと左側に懐かしい銭湯「八阪湯」があった。その向こうに「八阪神社」がある。平安時代、中道村に別荘を持った藤原道長が敷地内で祀っていた祠を村民が1166年に再興し、1584年に此の地に移転したと言われている。

 街道に戻って歩き出すと平野川を渡る玉津橋に出る。前回の前書でも触れたように平野川自体は付け替えた川であるので、昔の玉津橋もこの場所では無かっただろうが、江戸時代の初期から物資の運搬船である「柏原舟」がこの橋の下を河内の柏原と大坂の八軒屋との間を一日70艘上り下りしたのである。玉津橋の欄干には馬を繋いで、街道を行く旅人に馬で行くよう勧める業者がいたと言う。玉津橋は昭和61年に架け替えられた。それを契機に江戸時代の作になる「増修改正摂州大坂地図」をエッチングにしたもの6枚が欄干に取り付けられ、ここが古い歴史がある街道沿いであることを教えている。

街道は橋を渡るとすぐに右折し、一方通行を逆に南へと進み、嘗て「猪飼野」と言われた地区に近づいて行く。街道は住宅地を進み、一旦は南東方向へと向きを変えるも、常楽寺の南無妙法蓮華経の道標のある処で右折し、墓地を右に見ながら南へと進んで行く。街道が左にカーブして東西方向になると、今里筋に出る100メートル手前の角で再び街道を離れて右折し、長堀通りにある東成区役所へと向かう。街道のガイドブックによれば、区役所裏手の大今里西2丁目や玉津2丁目には見ておきたいものが幾つもあるからだ。
先ず見たいものは区役所の前に長堀通りに面して設置された、四代目桂米團治(よねだんじ)顕彰碑である。石碑に刻まれた「儲かった日も代書屋の同じ顔」は、中濱静圃(なかはませいほ)の筆名も持つ四代目作の川柳である。その一方で四代目は昭和13年に資格を取得した代書屋(今の行政書士)の顔も持っていた。

「二00八年、桂小米朝改め五代目桂米團治が誕生した。先代の四代目桂米團治は、人間国宝桂米朝師匠の師匠にあたり、上方落語噺『代書』を創り上げた人でも知られる。『代書』は四代目が実際に代書屋を営んでいたことから生まれた噺だ。最近では燻し銀三代目桂春団治師匠が得意とし、昭和の爆笑王、故桂枝雀師匠も生前によく演じていた。ただ、ネタはアレンジされたもので、オリジナルのネタではない。オリジナルの『代書』は放送で流せないネタとされ、タブー視されてきた。」(批評社「ニッポン猪飼野ものがたり」の中の、金光敏稿「大阪の寛容、落語『代書』の頃」から)
四代目が代書屋を営んだのは現在の東成区役所敷地内の一角だ。そこは朝鮮人が多く暮らした、嘗て猪飼野と言った地区の外れだ。この辺りでは日本の制度や法律が分からぬ人や、日本語が読めない書けない人が多かった時代、代書屋はそれこそ毎日商売繁盛だっただろう。今も区役所の隣に古い代書屋がある。たどたどしい日本語で日本の風習に不慣れな朝鮮人が、代書屋に相談する様を可笑しく語るのが落語「代書」である。聞きようでは外国人を嘲笑するようでオリジナルのまま演じるのは今日ではタブーとなったのである。

  来た方向のまま区役所の右脇をまっすぐ住宅地に入って行くと、左側に見える平戸公園を通り過ぎた四つ角に「大阪セルロイド会館」というレトロでモダンな建物がある。セルロイドとはニトロセルロースに樟脳を加えて造ったプラスチックの一種、否前身と言うべきか。成型加工が容易で玩具・日用品に多用されたが、可燃性の為、今日では使われなくなった。セルロイド会館は、昭和6年、1931年に建設され、昭和12年、1937年に増築された。この建物は嘗て今里でセルロイド産業が盛んだった時代を偲ばせる。今里に十河与三郎が大阪セルロイドを、中谷岩次郎が中谷セルロイドを創業した時代である。尚建物は平成13年、国の登録有形文化財に指定されている。

 セルロイド会館から西に向かって更に進むが、いよいよ嘗て猪飼野と言われた地区に足を踏み入れる。平戸橋で平野川を渡って最初の四つ角を左折し、細い住宅地の路地を南へと歩く。すると道がクランクになった角にある宝塔寺という寺の門前に「此付近 松下幸之助起業の地」の石碑が立つ。これが見たいが為、ガイドブックの地図を確かめながらやって来たのだ。松下幸之助、知らぬ人の無い、松下電器産業、ことパナソニックの創業者である。

 幸之助は1894年和歌山市和佐に生まれ、9歳の時、単身大阪に出て八幡筋の宮田火鉢店の丁稚となったが、間もなく五代自転車商会に移り、15歳まで同社で奉公生活をした。1910年、大阪電灯に内線見習工として入社。1916年、電灯会社職工の仕事の合間に改良型キーソケットを考案し、「松下式ソケット」の名で特許庁に出願した。それは翌1917年、実用新案として登録された。だがこの松下式ソケットを彼の会社が採用しなかったことから、それを世に出す為、幸之助は会社を辞めて事業家への道を歩み出したという訳だ。その時22歳だった幸之助は、元同僚の林や森田を誘い、妻の弟、井植歳男(三洋電機創業者 この時14歳)を郷里から呼び寄せた。また起業時代の八ヶ月、林の紹介で棲むことになった東成郡鶴橋町大字猪飼野字針求の四畳、二畳二間の借家に、幸之助夫婦と井植の三名が暮らしたのだ。松下式ソケットは失敗に終わった。彼らの事業を浮揚させる二股ソケットの発明はまだ少し後のことである。 右上の画像は現在の松下起業地界隈。

松下起業地の碑からまっすぐ南に歩くと千日前通りに出る。通りを東に向かって今里の交差点まで歩いた。五差路の今里交差点は昔、中央に柵で囲んだ子供の遊び場があるような信号の無いロータリーだった。当初千日前通りも長堀通りも、そのまま東に延長する予定だったが、住民の反対運動で二つの通りは今里で合流することとなった。今里を南北に縦貫する今里筋を加えると五差路となり、往時の法規では信号機が設置できなかったのでロータリーになったのだ。だがその後、車の往来が頻繁になって、歩行者の横断が困難となったために昭和29年、1954年に中央部の空き地が撤去され、信号機が設置されて通常の交差点になった。
今里交差点に出ると長堀通りを北に渡り、今里筋の西歩道を北上する。角のコンビニから100メートルも歩くと暗越奈良街道の古道と交差する。

  街道を先に進もうと今里筋を東に渡ると、そこに「暗越奈良街道」について語る堺屋太一の言葉を金属製の大きな銘板にしたものが掲示されている。
「暗越奈良街道は、大阪と奈良を結ぶ最も近い道だ。それだけに、古来、様々な人と物とがここを通った。古くは天平時代、大仏開眼に招かれたインド僧が(736年)、ついで中国の鑑真和上が(753年)ここを通って奈良の都に入った。正倉院に残る宝物の中にも、この道を運ばれたものが多かったことだろう。この道はシルクロードの東の端なのだ。」
今回は堺屋太一の銘板がある街道の入り口から今里筋を背にして少し奥に入った所に喫茶店があったので、そこでコーヒーをいただき、今日の散策をそこで打ち切ることとして、嘗て今里ロータリーと呼んだ交差点に戻ると、地下鉄今里駅から鶴橋に帰った。