第十二回 藤井寺駅から河内松原駅へ 後編

第十二回 藤井寺駅から河内松原駅へ 後編

(始めに)現代、地球上は普く文明の光で覆われている。しかし先史時代は、文明に浴した民族が未開の民族を従えて建国することがあった。紀元前12世紀、黄河文明を率いる殷(いん)王朝から、王族箕子(きし)が現在の北朝鮮に赴任(あるいは亡命)し、そこに住むイエメク(濊狛 わいはく)族を従え、(箕子)朝鮮を建国した。
紀元前4世紀頃、満州にプヨ(扶余)が建国される。その後紀元前1世紀にプヨから独立した王族が、コグリョ(高句麗)をプヨの南、今の吉林省に建国した。そのコグリョも建国直後に分裂し、皇后とその連れ子が王のもとを離れ、コグリョの南にペクチエ(百済 くだら)を建国し、やがては今のソウル辺りまでを領有した。
コグリョ王家もペクチエ王家も共にイエメク族を従え、プヨ族の誇りを持ち、共に三足烏の軍旗を掲げ、前者は国名の一字、高を姓とし、後者は扶余あるいは余を姓としたと伝えられる。
ペクチエ(百済)の南にはハン(韓)族が住む地域(西から東に、馬韓、弁韓、辰韓と言った)があり、東端の辰韓にはシルラ(新羅 しらぎ)が紀元4世紀頃に建国された。更に馬韓、弁韓、辰韓の南岸には倭族が建国した加耶諸国(日本名みまな)があるのだ。
4世紀中葉、ペクチエ(百済)にクンチョゴ(近肖古)王が現れ、領土を南に広げ、馬韓、弁韓をも領有した。日本ではオキナガタラシヒメ(神功皇后)が息子の太子を従え、何度も渡海し、シルラ(新羅)を侵略した時代である。
九州北岸にも国家を営んだ倭族は列島内への進出に伴い、半島南岸の倭族がシルラ(新羅)に吸収されるよりも早く、縄文人の子孫たちと同化した。いつしか私たちの先祖は大陸からの呼称に合わせ、自分たちを倭(わ)人と呼ぶようになった。河内王朝の時代、私たちの先祖は朝鮮半島のハン族、プヨ族、イエメク族らと接触するようになり、文化交流を進めることになる。(画像は綾南の森で開催されていた菊の品評会から)

 11月5日、藤井寺市津堂の城山古墳を後にして羽曳野市島泉の雄略天皇陵を目指した。シエークスピアの戯曲に「リチャード3世」があるが、それは王位など回って来る筈もなかった王族が、野心をたぎらせ、権謀術数をもって王位を得るまでの、史実を元にした言わば悪が主役の物語なのである。
日本の古代にもこれとよく似た天皇がいた。雄略天皇、オオハッセ・ワカタケル大王。先帝の安康天皇(アナホ大王)が后の連れ子に暗殺される事件が発生し、それから始まる後継者争いの中で、次々に謀略を用いて政敵の皇族や有力豪族を倒し、遂に大王の御位を手にしたのが雄略天皇だった。だから彼の死後に皇位に即くところの、雄略が謀殺した皇族の皇子によって、親の恨みを晴らそうと彼の陵墓の一部が壊されることになる話が記・紀に載っている。

 私たちは先ず雄略陵東側の方墳の前から参拝し、時計回りに回って側面から全体を見ようとした。しかし南側の陵南の森に植栽された木々がよく茂って何も見えず、堺大和高田線を島泉の交差点まで大廻りして、北に回らなければ全体が見られなかった。伝説通り、雄略天皇陵は壊されて円墳と方墳との間が離れていた。
しかしこんな形に造成したのが実は明治政府だった。明治政府は円墳と離れた方墳を一つの前方後円墳に仕立て、わざわざ壊した部分まで再現した。これを捏造(ねつぞう)と言わなくて何を捏造と言おう。今では宮内庁までが、うしろめたく思ったか、真の雄略陵は別の古墳だと言うようになった。宮内庁が雄略陵と新しく比定し出したのが後で訪ねる大塚山古墳である。

 大塚山古墳に行く前にすぐ近くの重要文化財に指定された古民家、吉村家住宅を訪ねる。外観もとても趣があるが、内部公開は年に4回しか無いそうだ。親切にお隣の吉村さん宅の方がわざわざ表に出てこられ、申し訳なさそうにそのことを説明して下さった。公開の日が載っているHPを見て下さいと。

 島泉の交差点に戻り、南に下って近鉄線を越え、高鷲に入って大津神社に到着。大津神社の由緒書にも神功・応神期に百済から渡来した津氏の名前が出てくる。津氏の氏神として出来たのだが、スサノオのミコトが祭神として祀られる。
この地は難波の津(港)と柏原経由で南大和にあった王都を結ぶ長尾街道(大津道)の中間点であって、往時は人や物資の集まる場所として栄えたのだろう。この後、恵我ノ荘駅に向かう途中、喫茶店に入って軽食でランチをとった。

 近鉄恵我ノ荘駅の南から大塚山古墳を時計回りに半周する。これも実に巨大な前方後円墳だ。後期古墳と分かる剣菱型前方後円墳だ。剣菱型とは円墳と方墳の付け根に突起のある形。この壮大な古墳こそが雄略天皇陵だという人もいる。否、もっと後の時代の磯長(しなが)に埋葬された敏達天皇の改葬墳だと言う人もいる。
松原市に郷土史に詳しいN先生がおられ、大塚山古墳は欽明天皇の為に造られたが、結局埋葬されずに空古墳となったと説明された。この古墳の築造年代は6世紀。築造年代とぴったり合うのはN先生の説だ。ただそうなら、先の継体帝、安閑帝、宣化帝の先輩の御陵を遙かに凌駕する大規模な御陵を、即位と同時に築造させる力を持っていた欽明天皇とは一体何者なのか?という素朴な疑問が残るのだが。因みに雄略天皇陵として年代が一致するのは、前回訪れた葛井寺の南にある伝仲哀天皇陵である。

 最後に近鉄河内松原駅のすぐ南側にある柴籬(しばかき)神社を訪れた。祀ってあるのは仁徳天皇の皇子の一人の反正(はんぜい)天皇。仁徳天皇(オオササギ大王)の治世は西暦397年から427年(大平裕氏の計算による)、次の履中天皇(イザホワ・ワケ大王)の治世は428年から433年(同じく大平裕氏の計算による)。次に同母弟の反正天皇が4年間、この柴籬に皇都をおいて倭国を治めた。知る人は少ないが、河内松原が日本の首都だった時代が4年間だけあったのだ。

 仁徳帝が崩御し、履中帝が即位する段で、王族によるクーデターが発生し、先帝の皇都、高津宮が全焼し、大嘗祭ですっかり深酒に酩酊していた履中帝が、たった一人の伴を連れ、命からがら竹内街道を大和に逃げるエピソードが記・紀に記載されている。実に面白い物語だが、長くなったので次回にお話しするとする。