第一回 街道を歩く前に

第一回 街道を歩く前に

商都大阪(明治以前は大坂)から生駒山の暗(くらがり)峠を越え、奈良(南都)の門前町や、城下町、大和郡山を結ぶ、暗越(くらがりごえ)奈良街道を、気まぐれに思い立って始めた街道歩きの対象として最初に選んだ理由は、私の故郷が、生まれ育った大阪であり、同時に学生時代から今に至って棲む奈良(大和)でもあるから、両市を結ぶこの街道の歴史に格別な興味があったからだった。
実際に歩いてみると、歩く前の予想を超える多くの学ぶことがあった。それは単に周辺の郷土史を探索することではなく、前作をご覧の通り、結果的に近世・近代の商都大阪誕生の歴史そのものを知ることだったのだ。

 奈良街道を歩き終えると、その次は大阪と奈良を結ぶ街道の中で、古代のメインストリートとも言われる「竹内(たけのうち)街道」を歩きたいと思うようになった。私の職場に最も近いが故に、奈良街道に劣らず親近感のある街道であるからだった。
「竹内街道」(向陽書房 昭和63年発行)の著者、西田啓二郎氏によれば、国を創るに当たって、先ず国が成すべきことは、国家を維持するのに集める租税(米穀、反物など)を、領内各地から都に運送する為の道路(街道)造りだったと。
(画像は奈良県葛城市内の竹内街道)

 同書には、竹内街道が造られた経緯が書かれている。中国大陸が唐帝国の前の隋(ずい)帝国によって統治される時代である。607年6月に東シナ海を渡って来朝した隋使一行は、瀬戸内海を横断して難波津で日本に上陸した。一行は上町台地を徒歩で横断し、玉津で小舟に乗り換え、淀川、大和川、石川の水を集め、今の東大阪全域に拡がっていた河内湖に漕ぎ出し、途中から大和川を遡って南大和に入った。今の堺に流れる大和川は江戸時代初期に付け替えられたのだ。
更に初瀬川を遡って、三輪山麓の海柘榴市(つばいち)に上陸するも、想像を絶する辛苦の旅だったとの記録が残っている。このことから、この時竹内街道は未だなかったことになる。因みに急流を小舟が遡るには、陸地で大勢の人が綱で舟を引いたのだと思われる。
(画像は古代の河内湖 Yahoo検索で入手したもので出典不明)

古代の河内湖については、前作でも大きく取り上げた。これは時代が下るとともに干上がっては行くが、完全に乾いた大地となるには、大和川を柏原から付け替えして堺に流そうと幕府に建言する江戸時代初期の中甚兵衛の登場を待たなければならなかった。
それは暗越奈良街道が完成するのも近世以降であることを示し、ましてや古代には難波の都から大和に行くには、一旦南に迂回しなければならなかったのは間違いない。それが堺から始まり、松原市、羽曳野市、太子町、葛城市、橿原市を経由して進む竹内街道が古代のメインストリートと言われた所以でもある。
(画像は太子町、竹内街道歴史博物館での展示)

 いずれにせよ、607年の随使の来朝が契機となって、国家事業として「竹内街道」の造成工事が計画された。後に国が作った歴史書「日本書紀」には、613年(推古天皇21年)に「難波より(飛鳥)京に至るまでに大道を置く」と記されているから、これが「竹内街道」誕生の記録であると考える。
西田啓二郎氏によって詳述された「竹内街道」を見ても、名所旧跡を数多く紹介しているのは、出発点の堺付近と、終点の当麻や橿原市ばかりで、途中の地域に名所旧跡が少ないのが奈良街道とは違うところである。時代が進み、南河内から南大和への街道の中で主役を他に譲ったようで、為に街道周辺の人口も増えなかったようだ。よって暫くは堺の街の歴史探索を楽しむことにする。
(画像は堺市七道駅近くの風景)

 平成27年4月30日木曜日、月末だったが、一緒に歩きたかった友人のO氏の定休日に合わせ、私は会社を半休して、8時半に南海難波駅でO氏と落ち合い、本線の堺方面に各停の電車で向かい、大和川を渡ると次の七道駅で下車した。
取り敢えず最初の目的地にしたのは、駅から南東方向にすぐ近くにある「鉄砲鍛冶屋敷」の石標が建つ、戦国時代から代々鉄砲鍛冶業を継承してきた井上(関右衛門)家の屋敷だった。行く途中にも、歴史を伺わせる古民家をいくつも見つけた。成る程、堺には歴史がある。
(画像は堺市七道駅近くの風景その2)