第八回 近鉄小阪駅から東花園駅まで

 第八回 近鉄小阪駅から東花園駅まで

 長らく暗越(くらがりごえ)奈良街道を歩くことができなかったが、時期的に集中した仕事が一段落した連休明けの5月7日、ようやく前回に続く街道の御厨(みくりや)辺りから東に進むことができた。今回出発点と決めた近鉄奈良線の河内小阪駅に着いたのは丁度正午。改札を出て駅の北側に出ると、先ずは路を挟んで目の前にあるマクドナルドで昼食を摂る。
今日最初の散策目的地は、駅から北東方向に7,8分歩くところの大阪商業大学のキャンパスにある「大阪商業史博物館、谷岡記念館」である。谷岡記念館は大学の正門から入ってすぐ左側にあった。資料室や展示室は2階3階にあって、一般人も自由に見学ができる。随意、自由に見られると言っても、当然のことながら、開校されている(授業がある)日にしかキャンパス内には入れないことを附言しておきたい。

これから足を踏み入れる一帯は、昔は大和川とその分流の無数の川に挟まれ、ずっと湿地帯であった処、そして近世になって大和川が付け替えられた後は干上がり、綿花畑となり、木綿製品の生産基地となって大阪繊維産業の発展を背後から助けた地域である。だから今回のテーマとして、18世紀初頭の大和川の付け替えが生んだ新田開発、そしてその収益性の高さによって爆発的に流行した綿花と木綿の製品(河内木綿)作りが、近世近代の大阪をいかに日本の商都として発展させたか、という今日の大阪人でさえ忘れている歴史的課題を取り上げようと思った。だから高麗橋からやっと八戸ノ里駅まで進んだのを、大阪商業大学がある一つ手前の河内小阪駅まで私は一旦戻ることにしたのだ。


 中世の大和川は、柏原の石川合流点から西北に流れ、平野川(百済川)と分かれ、さらに玉串川と久宝寺川に分流し、玉串川は生駒連山の麓を西北に流れ、吉田川、菱江川に分流し、それぞれ深野(ふこの)、新開の二大池に通じて、再び久宝寺川と合流していた。更に久宝寺川は、南に大きく迂回して流れて来た平野川と城東辺りで合流した後に、京橋辺りで、鴨川、桂川、宇治川、木津川の水を集めて流れ来る淀川と合流して海に注いでいた。
所謂河内と言われた地域はその名の通り、旧大和川の流域の中にあって、川床は高く、排水が悪く、大雨に遭えば必ず川水は溢れ、堤防は容易に決壊し、それまで何度も筆舌に尽くしがたい惨禍を繰り返して来たのだ。


 谷岡記念館の資料展示にもあるが、農学博士の武部善人(大阪府立大学名誉教授、大阪商業大学教授)氏の著書「河内木綿史」(吉川弘文館発行)によれば、17世紀の半ば、中河内郡今米村(大和川分流吉田川沿い)の庄屋某(名は不詳)らが、大和川の流域治水を根本的に解決するには、大和川を真っ直ぐ西へ放流する新水路を開鑿(かいさく)すべしとの結論に達し、関係地元民や江戸の幕府の理解を求めて説得活動を始めたのだ。しかし新川予定地に当たる村々としては先祖伝来の田畑を失うので同意はできない。1656年彼は没したが、子の太兵衛や甚兵衛がその意志を引き継いだ。以後、促進派と反対派との度重なる幕府への嘆願合戦は地域社会を巻き込みながら40年も続く。やがて甚兵衛らの努力が実を結び、幕府をも動かして、ようやく国家事業として1704年2月から「川違え工事」が開始された。
新大和川への付け替えは僅か八ヶ月で完成する。驚異的な速さというほかはない。接収する用地の半分が天領(幕府所有地)だったことも、それを可能にした要因であった。以後甚兵衛兄弟は苗字が許され、兄は川中を、甚兵衛は中を名乗ることになった。


付け替え工事が終わると干上がった河川敷や湖沼での新田開発が始まり、1708年頃には、鴻池新田(新開池跡)、深野新田、河内屋新田(深野池跡)、山本新田(玉串川跡)、川中新田(吉田川跡)、菱屋新田(菱江川跡)など、殆どの新田が開発された。これら大小約50にも及ぶ新田には木綿が盛んに作られるようになる。河床の土壌が綿作に適したこともあるが、綿作は米作の倍以上の粗利益が得られ、それを紡糸にし、織布とするなら更に綿作に倍する収益が得られたからである。

木綿は従来の麻布などに比べ、丈夫で暖かく、肌触りが良いが為に、その需要は庶民の間に急速に拡がった。よって河内の農民は「田畑勝手作の禁令」を破ってでも、有利な綿作に転換しようとしたが、幕府も貢租の増加を見るにつけ、転作を認めざるを得なかった。農家では、昼は畑で綿を作り、夜は子供までが紡績(くりつむぎ)をし、女はこれを織って商った、と伝えている。各農家共に奉公人を出す様な貧しき家は無く、寧ろ奉公人を雇い入れる程だったと云う。よって農家に嫁ぐ女には、綿を紡ぎ、織機を操り、木綿製品の商売に長けることなどが条件として望まれたのだ。


大阪商大を後にして、正門から真っ直ぐ北に歩いて、府道15号線に出る(御厨栄町の信号の)一つ手前の辻を東西に横切る、閑静な住宅地を進む道が奈良街道である。やがて街道は府道15号線を横切って北へと迂回する。嘗てはこれも道標だったのだろう、御厨(みくりや)行者堂という小さなお堂の前に出ると、道はそこから東にと向きを変える。少し行くと時代劇に登場するような重厚な門構えの大きな邸宅がある。植田家本陣と言われ、嘗ては大和郡山の柳沢家や、片桐家が休息する本陣(大名家の宿泊所)であった。今は東大阪市の指定文化財となっている。


 植田家から広い道を東に渡った辺りが、江戸時代には大和川付け替え工事によってできた菱屋中新田があったところだ。地元の菱屋が開発したこの新田は、1732年には江戸の三井家の所有となっている。今は玉岡神社の小さな祠(ほこら)しか残っておらず、そこにあって多数の人を集めて賑わった新田の管理事務所、三井新田会所跡を示す「旧菱屋中顕彰碑」と書いた石碑が、今は寂しく立っている。 木綿の生産は米作に比べ、良いところ尽くしではない。生産の豊凶の差が激しく、極めて多肥、多労を要する作物だからだ。よって武部善人教授の説によれば、綿作綿織農家は徐々に綿買問屋資本の金融支配を受けるようになり、その収益も何時かは株仲間組織を編成する問屋資本に収奪され、上昇発展どころか下降分解を余儀なくされるのであった。この新田を買収した江戸の三井家も、北の新開池を新田に開発した鴻池家(後の三和銀行グループ)も、共に明治の世には国家権力と結びつく政商となって巨大な発展を遂げている。


更に東へと歩くと街道は意岐部(おきべ)の信号で府道15号線と合流するが、私は府道には出ずに、そのまま江戸時代の景観を残す住宅地の中の小道を東へと進み、中央環状線に突き当たったところで国道に戻って近畿高速の下を潜って東に渡った。後は暫く国道の歩道を東に歩いた。昔の奈良街道もその街道沿いの名所旧跡も、皆この広い道路の下に消えてしまったのかとため息をつきながら。
奈良街道が府道から逸れるのは、この辺りでは八剱(やつるぎ)神社付近と菱江おかげ灯籠辺りの二カ所だけだ。八剱神社は小さな森の中にあって、日差しの強い日であったので、涼しい境内の中、腰を下ろせる場所を探して一休みした。時刻は3時。ガイドブックは、この辺りも菱屋が菱江川跡を菱屋東新田として開発した地だった、と載せていた。


次にやって来たのが菱江おかげ灯籠だ。一本の巨大なもちの木の両側に地蔵堂と石灯籠があった。1830年(文政13年)は伊勢神宮、20年に一度の遷宮の年に当たり、しかも60年目の「おかげ年」とも言われ、伊勢講が爆発的に流行った年である。この灯籠はそれを記念して伊勢講の人たちによって翌年に造られたものだ。往時の日本の人口は二千数百万人、その内のなんと5百万人近くが、この年伊勢神宮に参拝したと伝えている。幕末の世を騒がせた“エージャナイカ”のおかげ踊りは、この凡そ60年後のことである。地蔵の方は、もちの木の側にあるので、「もちの木地蔵」と親しまれている。


後は暑い日中、再び府道15号線の歩道を東へと歩き、花園ラクビー場に近づいた辺りで、本日の街道散策を終了し、そこから右折して近鉄の東花園駅へと向かった。徒歩20分くらいの距離である。途中、再び歴史的景観を漂わせる邸宅街の中を歩けたのは、予想外であった。
暗越奈良街道唯一公認の宿場であった「松原宿」があった処はもう目と鼻の先である。次回は地下鉄中央線の吉田駅から「松原宿」跡地に入るとしよう。