第十七回 竹内峠から近鉄大阪線大和高田駅まで 

第十七回 竹内峠から近鉄大阪線大和高田駅まで

平成29年6月1日、初夏の好天の日、街道歩きの相棒である岡田氏と、近鉄南大阪線上ノ太子駅から民家に挟まれゆっくりと二上山を登っていく竹内街道の古道を歩いた。古道は1キロばかりで終了し、国道166号線に合流する。後はアスファルトのロード歩きだ。

途中、二上山の登山口にあるレストランで休憩した後は一気に竹内峠に登った。最後まで急坂は無い。暗越奈良街道の登山の様な大阪側からの暗峠の登りとは大きな違いだ。峠には国道の南側に鶯の関跡の石碑などがあり、ハイカーが休憩できる公園もある。そこでお昼をいただき、道標に導かれ、国道を渡って今度は国道の北側のハイーカー用の鬱蒼と茂る林道を奈良県側に下るが、少し行くと国道の下を潜るトンネルがあって、その向こうには国道の南側に、車も行き交える林間の広い道に合流し、それをどんどん下って行く。陽も当たらず、涼しくて心地よい道だ。

どんどん下って行くと、やがて再び国道166号線と合流する。大型トラックが次々と行き交うので、道の端を前後車に注意しながら歩かなければならない。やがて右側に再び民家が並び出すが、その民家に挟まれて奈良県側に下る細い道が国道と分岐する。分岐点から山側を振り返れば、その上には菅原神社がある。私たちが歩く竹内街道は、その民家に挟まれた古道の方である。

そちらの道に入れば、こちらが竹内街道だと示す道標がある。こちらの道も昔の風情を残しており、絶好の撮影対象となる。一昨年の冬、いつもの街道歩きのメンバーで奈良県の近鉄南大阪線の磐城駅から出発し、当麻寺を参拝し竹内峠を目指したから、うっかりこちらの古道を登らず、国道166号線のアスファルトの道を登ったのだった。この分岐まで登って来て、初めて自分たちが正しい街道を歩かなかったことを知ったのだ。
竹内街道を歩いていると実感する道が、太子町役場近くの六枚橋東の交差点から始まる1キロの細い道と、菅原神社から竹内の集落に下る細い道の1キロである。

街道沿いにある電柱や電線さえ無ければ、江戸時代さながらの風景である。

やがて街道の右側に何か集会所のような大きな建物があって、そこに綿弓塚の道標がある。一体綿弓塚とは何だろう、と思って建物の中に入って見ると、松尾芭蕉がこの地を何度か訪れ、句を幾つか詠んでいるのを記念して建てられた建物であることが分かった。

中でも有名な句が

綿弓や 琵琶に慰む 竹の奥

である。これは「野ざらし紀行」にあって、松尾芭蕉が1684年に竹内(現葛城市)を訪れ、門人、苗村千里(ちり)の旧里、竹内で詠んだ句であると伝える。その後100年余りして、芭蕉の句を記念して綿弓塚と彫った石碑が1809年に建てられた。石碑はこの地の庭にある。
そもそも現代の私たちには綿弓とは何ぞや?である。綿弓とは小型の竹製の弓で、弦には牛の筋か鯨の筋を使ったそうである。綿をほぐして打ち綿をする道具である。弦の周りに綿を巻き付け、弦を指で弾くのである。

綿弓塚の記念館で一休みした後、更に街道を下った。

県道30号線を渡るときに左に同県道と国道166号線との交差点、竹内を見る。今渡った県道30号は昔の県道30号こと長尾街道のバイパスとして作られた新道である。長尾街道も堺市・松原市から国分を経て、信貴山と二上山の間を抜けて、この辺りまで伸びる街道だが、竹内街道よりは少し新しい街道である。南北朝時代に高師直(こうのもろなお)率いる足利幕府軍が吉野攻めに使っている。

さらに竹内街道の古道をまっすぐ東に進むとほんとうの長尾街道に交差する四つ角にやってくる。

そこに竹内街道の石碑が有り、また孝女伊麻の碑がこの東700メートルにあると示す看板が立つ。孝女伊麻というのはこの竹内、長尾の辺りでは親孝行な娘だとよく知られた女性で、松尾芭蕉もその噂を聞いて、伊麻に逢いたくてこの地を訪れたとの話も伝わる。

身体が弱って寝込む父親に、滋養に良いというこの山国では手に入らない鰻を食べさせてやりたいと一心に祈っていると庭の瓶の中で鰻が踊っていたという孝女伝説である。

竹内街道は長尾神社の境内に突き当たると古道の行き先が不明となる。私たちは長尾神社の杜に入り、神殿の前に出るとそこから参道をまっすぐ東に出た。

桜井の大神神社(みわじんじゃ)とともに蛇の神様を祭り、大神神社がその大蛇の頭を祭り、長尾神社は大蛇の尻尾を祭るのだという。それでは実に巨大な蛇の神様である。

近鉄南大阪線の踏切を渡った後は左(北側)に向きを変え、国道166号線に戻り、国道の歩道をひたすら東に歩いた。

再び熱い日差しの中をロード歩きだった。途中杏樹という喫茶店で休憩。
その後も苦痛のロード歩きが延々と続いた。目指すは近鉄大阪線の大和高田駅である。

やがて右手前方に大和高田市立病院が見えて来ると大中公園の角を左折。後はひたすら大和高田駅をめざすのみである。

右手に川越しに見る大中公園は美しい。

桜の季節が見頃だそうだ。

大中公園の北の外れに来ると川を渡り、川の右岸の広いロードを大和高田に急ぐ。

駅に出る手前に、弁慶の七つ石という名所がある。

兄の頼朝が送った鎌倉勢によって京堀川の屋敷を焼き討ちされ、その後は吉野を目指して逃げる義経一行が立ち寄った場所であって、この公園に並んだ七つの石に義経主従が座って休憩したという。この時、この近くが静御前の母が住む村であったから、静かには母に会える機会を義経が与え、彼女の帰りをここで待っていたとも伝える。

そこから大和高田駅はすぐ近くだ。駅から遙か遠くなった夕日に光る二上山を振り返る。今日はほんとうによく歩いた。