第二回 谷町四丁目から鶴橋まで 前編

(前書)高麗橋を出発し、八軒家から熊野道と共に南に進む暗越(くらがりごえ)奈良街道は、長堀通りの手前で熊野道と別れて東に進む。環状線玉造駅から今里ロータリーに入って行くが、その辺りから朝鮮半島や済州島から渡って来て、明治から平成へと何世代にも渡って日本人と共生してきた人々が多く暮らす地域へと進んで行く。彼らの祖国では、被害者としての反日感情が戦後70年にもなって消えるどころか、最近は返って強く燃えさかりを見せるので、我が国でも対抗して嫌韓感情を露わにする人々が出てくる始末だ。このような状況は第三国を利するだけで、双方の国民にとって不利益であり、不幸なことだ。近現代史だけに目を向けるのではなく、今こそ共に古代から現代までの両国の長い歴史を学び直し、相互理解を更に深めなければならない時だと思っている。画像は鶴橋の国際市場の中にて。

第二回 谷町四丁目から鶴橋まで 前編

 暗越奈良街道の散策を続けようと地下鉄谷町四丁目駅に戻って来たのは12月8日、午前10時前だった。天候は上々、撮影日和だが、上空には寒波が入って、気温は上がらない。大通りを農人橋一丁目まで歩き、左折して熊野街道を南へと歩く。しばらく行くと「太閤下水」の跡だと解らせる構築物や看板があった。織田信長に攻められ、焼土と化した摂津石山寺内町の跡地に、「大坂」と名付ける新都市を造る時に、秀吉によって工事が着手され、それを引き継いだ幕府が江戸初期に完成させた、地下に伸びる下水道である。フランスの都パリに14世紀、既に側溝型の下水道があったことは有名だが、パリ市で地下の下水道があったのを確認できるのは18世紀のことだから、その百年前から使われて来た大坂(大阪)の下水道は、世界に先駆ける誇るべきものだと言えるだろう。

 更に南に歩くと長堀通りに出る十数メートルがゆっくりと下る石段になって歩行者にしか行けない道になっている。そこに樹齢650年と言われる槐(えんじゅ)の大木が植わっていて、幹の下部に榎木大明神と呼ぶ祠(ほこら)がある。実は暗越奈良街道はここで熊野街道と分かれて東に曲がるから、そちらには車でも進めるのだ。ただ高津神社を訪ねたかったので、そのまま石段を下って長堀通りを渡り、熊野道を更に南に進んだ。やがて空堀通り商店街をクロスするが、この辺りは前の大戦の時、奇跡的に空襲の戦禍を逃れているので、所々にノスタルジックな町屋を見つけることができる。

更に南に進めば高津(こうず)神社に上る石段に出る。高津神社は高楼から人民の炊飯の煙が見えなくなったと、暫時租税の減免を宣言した天皇として知られる仁徳帝の高津宮があった処だと言われるが、秀吉の大坂築城時にもっと北にあったのを、此の地に移転させられたという説もある。仁徳帝の時代は大陸や半島との交流が特に目覚ましかった。往時、ここは南の方向にしか陸地と繋がらない三方水に囲まれる半島であって、この様な地に王宮を置くこと自体、内政より外交を重んじていたことが分かる。仁徳帝祖父の仲哀帝も、父の応神帝も、帝自身も、長男の履中帝も、三男の反正帝まで、墳墓が河内平野にあって、為に以前の三輪王朝と区別して河内王朝と呼んでいる。加えて副葬品も、それまでの鏡や宝飾品等の平和なものから、朝鮮半島のスタイルを真似た鎧・兜や馬用武具と言った武器類が目立つことも注目すべきだ。画像は熊野道、空堀通り付近。

ここで私の知る範囲で朝鮮半島古代史の概略をお話ししたい。紀元前一千年頃、古代中国の殷(いん)の亡命貴族が黄河の北東部に逃れ、その地に棲む民を束ねて「朝鮮」を建国した。これを古朝鮮と言う。紀元前100年頃、古朝鮮の再興を唱えて、満州に騎馬民族国家、扶余(プヨ)が建国された。やがて扶余から派生する形で半島の北西部に高句麗(こうくり コグリョ)が生まれた。ところがすぐに内部分裂し、飛び出した一団によって今のソウル付近に建国されたのが百済(くだら ペクチエ)である。百済は4世紀中葉の近肖古(クンチョゴ)王の時、領土を半島の南まで拡大した。4世紀の終わりには高句麗に広開土(クワンゲト)王が出て、百済を半島南西の地に追いやった。高句麗と百済を支配した人々は同じ民族であって、仮に扶余族と呼ぼう。一方半島の南東にいた新羅(しらぎ シルラ)の人々は、今日の韓国人の先祖であるから仮に韓族と呼ぼう。かつて日本列島には縄文文化を花開かせた先住民が棲んでいた。弥生時代に入ると扶余族や韓族や漢民族が次々に半島や大陸から渡って来て、先住民との混血が進んだと見られている。

さて高津宮をタカツの宮と読む教育者がいるが、コーズに高津という漢字を充てたのは、何百年も後の、古事記や日本書紀が編纂(へんさん)された天武天皇の白鳳時代になってからである。さて羽曳野市には郡戸と書いてコーズと読む地があって、南阪奈道の新規造成工事に伴う発掘の時、この地に多数の古代の屯倉(みやけ 納税された米穀を容れる国家の倉庫)の柱跡が発見された。高津と郡戸、文字は違っても、元は同じ言葉だったのではなかろうか。その意味するところは分からない。河内や大和には古代からそのままの地名が多く、後になって無理に漢字を当てたものだから、意味の分からないものが多い。古代の日本では、今の日本語の源流である言葉とは違う、どこかの国の、但し今は無い国の、言葉が使われていた証しなのではあるまいかと思うときがある。

高津神社を出て、お寺が並ぶ中寺町を北上し、空堀商店街を越え、奈良街道である長堀通りの一本北側の道を東に歩いて上町筋に出る。一旦奈良街道から離れて上町筋を北上し、難波宮史跡公園に差し掛かる時、西側に大きな「大村益次郎殉難」の石碑が建っていた。大村益次郎こと長州の村田蔵六は維新十傑の一人と言われ、明治新政府による江戸攻めに有栖川宮を補佐して同行した。この後、兵部省大輔(陸軍副大臣)にまで出世した。ところが明治2(1869)年9月3日、京の木屋町で仲間と飲食する時に、同じ長州の浪士らに襲われ、仲間二人は命を失うも、益二郎は瀕死の重傷を負った。襲われた原因は話が長くなるので省略する。大阪仮病院(大阪国立病院)に転院して、蘭医ボードウインによる大腿部切断の手術を受けることになったが、手術の勅許を得る東京との折衝に時間が費やされ、11月になって手術はするも、同月5日、この地で息を引き取った。

 難波宮史跡公園の地は、明治時代から陸軍省管轄地であって、敗戦時には歩兵第八連隊が置かれていた。占領軍の接収が解除されると1953年、偶然に鴟尾(しび)の発見が機縁となって、山根徳太郎らの発掘調査が進められ、8世紀の奈良時代の遺構と共に、数年後には7世紀の孝徳期の遺構が発見された。前者を後期難波宮と呼び、後者を前期難波宮と呼ぶ。1961年、山根らによって後期難波宮の大極殿(だいごくでん)跡が発見された。現在そこに大極殿の基壇をイメージする礎石がおかれている。長く国民から忘れられていた難波宮跡、しかしこの場所こそ、日本歴史上の一大政治改革が一人の天皇によって宣言された由緒ある地なのである。

645年6月、飛鳥(あすか)の時代を通じて権力者であり続けた蘇我家最後の当主、大臣(おおおみ)入鹿(いるか)が、時の皇極女帝の嫡男、中大兄(なかのおおえ)皇子らによって王宮内で暗殺され、それに仰天、悲嘆、絶望した父の蝦夷が屋敷に火を放って自殺した政変を「乙巳(いっし)の変」と言う。入鹿に肩入れしてきた女帝は退位を余儀なくされたが、クーデターを成し遂げた中大兄も皇太子の地位を得たに過ぎず、代わって皇子の叔父が孝徳天皇として即位した。中大兄は自らの手を血で汚したことで直ぐの即位は憚られたようだ。同年12月、造営工事が始まる難波宮に、正式には「難波長柄豊碕宮」に飛鳥からの遷都が強行される。翌646年正月、孝徳帝によって「大化の改新」の詔(みことのり)が宣布され、隋や唐に習って、我が国は天皇のみが国土を領有し、人民を法令で統治する律令国家への変革の第一歩が踏み出された。

 時に朝鮮半島は、北に高句麗(こうくり コグリョ)、南西に百済(くだら ペクチエ)、南東に新羅(しらぎ シルラ)が鼎立(ていりつ)する時代であって、中でも武(ム)王に続いて義慈(ウイジャ)王が統治する百済と、善徳(ソンドク)女王から真徳(チンドク)女王を経て武烈(ムヨル)王が統治する新羅は激しく領土を争っていた。その昔は半島の三国とは均等に交際してきた我が国だったが、次第に両国の争いに巻き込まれ、同盟国として百済を選ばざるを得なくなった。
しかし660年、百済は唐と結んだ新羅との戦いに破れ、国を滅ぼすこととなった。加えて同じ扶余(プヨ)の血が流れる高句麗まで続いて唐と新羅に滅ぼされたのだ。大唐帝国を宗主国とし、その柵封(さくほう)国(領土が与えられる従属国)となることで新羅は半島の統一国家となった。古代の日本人にとって、大化の改新も国民生活を一変させる一大事変だが、その15年後の半島と日本列島の関係を180度変えた百済の滅亡も、勝るとも劣らない一大事件であったはずなのだ。

662年、皇太子は天智天皇として即位し、翌年百済遺民の要請を受けて三万七千の援軍を出して唐の水軍と戦わせたが、大敗した為に百済の再興は諦め、多数の百済遺民を連れて帰国させた。またその後も半島からの亡命者を出来る限り受け入れたと言う。それまで先進文化人、先進技術者として、国民から尊敬と憧れの眼差しで見られた百済人だったが、これからは戻る故国が無くなった人々と哀れみの目で見られるだろうし、唐軍の捕虜となった義慈(ウイジャ)王とその家族が、奴隷にされた一万人とも伝わる百済農民らと共に繋がれて遠路唐の都の長安(西安)まで歩かされ、大半が途中で命を落とした話などを聞くにつれ、百済贔屓だった倭人には、大国の配下に入ってまで、扶余の血を根絶やしにして半島を統一した新羅の人々を、以前と同じように親しく感じることができたであろうか。無論百済の滅亡などを何時までも覚えている日本人ではなかったが、それでもこの事件より後、両国人民は互いに自由に行き交うこともなくなり、互いに近くて遠い国になったのは間違いないだろう。
まだ本日の散策の途中だが、一旦ここで休憩としたい。時刻はまだ11時半である。