第六回 地下鉄新深江駅から近鉄八戸ノ里駅まで 前編

第六回 地下鉄新深江駅から近鉄八戸ノ里駅まで 前編

 2月11日の祝日、再び大阪市営地下鉄の新深江駅から地上の国道308号線に上がったのは午前11時。大陸の寒波がここ数日、日本列島に居座っている為、大阪は曇り空で気温は日中でも7度前後にしか上がらない日だった。今回は奈良街道に沿って国道を東に向かって歩き出す。すぐ目に入って来るのが国道に面して南側にそそり立つ8階建てのコクヨ(株)の本社ビルだ。Campusノートと共に、その名を知らぬ者はいない。文房具とオフイス家具を作っている東証一部の上場会社である。創業は明治38年、創業者、黒田善太郎(1879~1966)27歳の時だった。現社長の黒田章裕氏は創業者の孫にあたる。12年後の大正6年、善太郎は郷里、越中国(富山県)の誉れとなる製品を作りたいとの念願を込め、商標を「国誉」としたのが社名の謂われである。画像は地下鉄新深江駅の壁面だが、かつてこの地域の名産品であった菅笠(すげがさ)がモチーフになっている。


 既に述べたことを繰り返すが、7世紀の大化改新の時代、朝鮮半島で同じ扶余族の高句麗(こうくり)と共に、唐、新羅(しらぎ)の連合軍に滅ぼされた百済(くだら)の、何万とも言われる亡命者、即ち憧れの先進文化人から、帰る祖国の無い哀れな流浪の民に変わった人々を、時の日本政府(近江朝廷)が受け入れ、その一部を住まわせたのが東成区と生野区にまたがる「猪飼野」だった。平野川が運ぶ土砂で、古代に東大阪全域を覆った「河内湖」の西南岸が干上がって出来た新開地である。その1300年後、日韓併合の後に半島から渡航してきた朝鮮の人々が棲みついたのもこの「猪飼野」であった。低湿地だった上に平野川がよく氾濫し、決して住みよい土地ではなかった。日本語を話し、外見も変わらぬ異国の多数の民が日本人と共生する地域となった。行政が、平野川を新平野川と平野川分水路の二つの運河に付け替える工事に着手したのは百年前。それは20年の工期を経て完成した。そして偏見や故無き風評が定着せぬうちにと「猪飼野」の地名を行政が消滅させたのは40年前である。
コクヨ株式会社が文房具業界に進出した大正11年、この「猪飼野」(東成区玉津2丁目)に敷地500坪の工場を新設している。昭和2年、この地が市電の開通によって立ち退きとなり、東成区中道に中道工場が新設され、昭和11年には現在の新深江に本店・工場を新築移転した。コクヨの創業ビジョンは「カスの商売」に象徴される。黒田善太郎は「カスの商売」を奨めることで、面倒でやっかいで儲からないが、世のため人のためになる仕事をやり続けることの大切さを説いたのだ。


 新深江迄進んだのであるから、「猪飼野」は後方に去ってしまったが、日本人には住みづらくなった「猪飼野」に工場用地を求めた大企業はコクヨだけではない。ロート製薬の創業者、奈良県宇陀郡の出身である山田安民(1868~1943)も、大正11年、「猪飼野」大成通1丁目に工場を建設し、東心斎橋の薬剤店から製薬メーカーへの道を進むことになった。1949年、創業50年を記念してロート製薬(株)を設立した山田輝郎は安民の長男である。因みに津村順天堂の創業者、津村重吉は安民の実の弟である。
又現ユニチカの前身、ニチボーこと大日本紡績を創立する尼崎紡績の社長、福本元之助(大日本紡績では副社長)も、猪飼野「鶴の橋」のすぐ北側に邸宅を構え、御幸森天神社(コリアタウンの入口にある)造営に多額の寄付をしたことを記す石碑が境内にある。
又兵庫県生野からこの「猪飼野」に出て来て、セルロイドの眼鏡枠の製造工場を営む父親の背中を見ながら育ったのが、マドロスパイプを咥えた姿と共に、「だいたいやねえ」の口癖で有名な(政治)評論家、竹村健一氏である。
さてコクヨ本社の前を通り、南北を走る内環状線を渡って、南の歩道を200メートル行けば、奈良街道は斜め北に曲がる国道308号線から離れ、再び二軒程の道幅になって真っ直ぐ東に進む。画像はその入口付近である。


 奈良街道の小路に入って直ぐ、瓦葺きの地蔵尊にくっついて付近の法明寺へと案内する道標がある。だから案内地蔵と言われる。法明寺はそこから左に曲がり、再び国道を越えて住宅地の細い通路を北に入ると深江稲荷社があって、その西側に並んでいる。融通念仏宗(本山、平野大念仏寺)中興の祖と言われる法明上人(1277年~1349年)所縁の寺と伝えられる。寺の墓地には誰でも入れるが、中に雁塚と名付けられた二基の石塔がある。その昔、清原正次という弓の名手が一羽の雄の雁を射落とすと、その雁には首が無く、付近をいくら探しても見つけられなかった。次の年、正次はもう一羽、今度は雌の雁を射落としたが、その翼の中から乾いた雄の雁頭が出て来た。この話を聞いた法明上人は雁の夫婦愛に心うたれ、雁塚を建立したと言うのが石塔の謂われである。しかし石塔の建立時期を比べれば、一基は13世紀(弘長二年)であり、もう一基は14世紀(延元四年)であって、相当年代の差があるのには首を傾げたくなる。この寺は1797年に建てられたもので、法明坊良尊がこの深江の地で融通念仏宗の布教に励んだ時代には草庵しかなかったのだ。二基の石塔の一つは法明上人出家前の建立であるから、上人の建立さえ不確かだが、いずれも上人の生家、京の御所に勤めた清原氏縁者の塚であろうと思われる。


 次に法明寺のすぐ北にあるとガイドブックにある「安堵の辻」を住宅地の中で探したが、こちらは住民に尋ねてようやく見つけることができた。1349年6月、法明上人がこの辻にやって来ると、紫雲と共に高僧(沙弥、教信と伝わる、沙弥教信786年~866年、生涯南無阿弥陀佛の念仏を唱え続けた。親鸞や一遍の先駆者と言われる。)が現れ、これまでの上人の多数の人々を救ってきた業績を称え、極楽に迎える日が迫ったことを伝えた。すると上人は本当に予告された日に亡くなったと言う。だからこの辻を安堵の辻と呼ぶようになった。1349年と言えば、南北朝の争乱が激しかった頃。翌年には足利氏の内輪もめである、観応の擾乱(じょうらん)が始まって、世は益々混沌として行った。
安堵の辻から南に街道に戻って行くと、段倉(だんぐら)という建物が並ぶ地区がある。昔は淀川の氾濫でこの深江地区は貴重な古文書などをよく流失してきたので、貴重な書類などは石を積み上げた高い蔵に収容するようになったのだ。


さて段倉のすぐ南側、位置では法明寺の裏手ぐらいになるのだが、本日の午前の散策の最大の目的地、「人間国宝 角谷一圭記念 深江郷土資料館」を訪れた。この資料館は平日が休みであるから要注意。本日は祝日だが、このような外を歩く人も少ない寒い日ではどうかと、実は開館しているか着いて見るまで心配だった。
入場料も取らずにこの深江の地の特産品だった菅笠の資料や、人間国宝の角谷家の鋳物の作品を載せた資料を戴いては流石に私も恐縮する。そこへ館員さんがやって来て、展示されてある菅笠の説明を私につきっきりで説明して下さった。てっきり館員さんだと思っていたら、茶の湯釜歴史研究家の肩書きを持つ山元啓三さんという言わば郷土史家のボランテイアだったと後で戴いた名刺を見て知って更に恐縮した。


深江の地は一帯が低湿地で、そこに生い茂る良質の菅(すげ)を求めて、大和の古代氏族、笠縫氏が移り住み、深江の名産、菅笠を作って来たのだ。江戸時代には伊勢参りの道中笠として買い求める人々で賑わった。山元さんの説明では、人々は単に雨除け日除けの目的で菅笠を被ったのではなく、この由緒ある菅笠の言わば霊力で道中を守ってもらいたいという願望があったらしい。この製法は今なお引き継がれ、伊勢神宮「式年遷宮」や、天皇が即位される「大嘗祭」の儀式用の大型の菅笠なども制作されている。


この資料館に展示されているもうひとつの深江の名産品は、人間国宝、角谷一圭で有名になった角谷家代々の名人が制作した鋳物の鉄瓶や茶の湯釜である。深江の鉄瓶は明治26年シカゴ万国博で受賞される程の技術力があった。これに惹かれて宮大工の角谷巳之助師(1869年~1945年)が鉄瓶製作を始めることになり、その息子の與齊師(よさい 1902年~1979年)、一圭師(1904年~1999年)、莎村師(しゃそん 1911年~1987年)も、茶道に造詣の深い地域の有力者の後援を受けて本格的に茶の湯釜の制作を行うようになった。長男の與齊師は裏千家の出入り方を許され、次男の一圭師は昭和53年(1978年)に人間国宝に認定された。


陳列品の説明を茶の湯釜歴史研究家の山元氏にしていただいていたら、そこに人間国宝、一圭師のご長男で、釜師として活躍中の征一師がやって来られ、自ら私ひとりの為に鉄瓶や茶の湯釜の説明係を山元氏と交替されたのは光栄なことだった。
この資料館には巳之助師制作の鉄瓶、與齊師、一圭師、莎村師の湯釜、そして征一師の湯釜が陳列されている。私は記念に征一師と師の作品の前に並んで写真を山元氏に撮ってもらった。なお20年ごとに行われる伊勢神宮式年遷宮に、一圭師は御神宝鏡31面を二度に渡って奉納されたこと、昨年、平成25年の遷宮には、同31面の御神宝鏡を征一師と弟の勇圭師が制作され、奉納されたとのことをここに付記する。 資料館を後にしたのは午後1時頃だった。(後編に続く)