第十三回 土師ノ里駅から上ノ太子駅まで 前編
第十三回 土師ノ里駅から上ノ太子駅へ 前編
暫く気候が寒いからと(実際は所属団体で要職を受け忙しくなったので)中断していた竹内街道歴史散策の再開を要望する声が高まり、半年ぶりの翌年の平成28年5月5日になって、いつものO氏、T氏に加え、私の家内、O氏の奥様、O氏友人のK氏、fbのお友達が一人加わり、好天の中、近鉄南大阪線土師ノ里駅に集合した後、道明寺天満宮から応神天皇陵を時計の逆回りに歩いて竹内街道に合流し、古市駅から石川を渡って駒ヶ谷に至り、そこで再び街道を離れ。壺井八幡宮、通法寺、叡福寺を経由して上ノ太子駅に至る、恐らく2万歩を超える歴史ウオークに出発した。
私たちは土師ノ里駅に集合し、先ずは駅のすぐ北側にある允恭(いんぎょう)天皇陵を見ることに。允恭天皇は、その前の反正(はんぜい)天皇、その前の履中(りちゅう)天皇とともに、有名な第16代仁徳天皇と葛城氏から天皇に嫁いだ磐之媛(いわのひめ)皇后との間に生まれた兄弟の末っ子である。
長兄の履中が即位した大嘗祭の夜、次男の住吉(すみのえ)の仲(なかつ)王が反乱を起こし、高津の王宮に火を放った。深酒で酩酊状態にあった履中は馬に縛られ、家来とたった二人で履中の本拠地である大和に逃亡を計ったが、往時は東には湖が拡がり、三男の反正がいる南の丹比(たじい)を経由して行くしかなかった。しかし反正も敵なのか味方なのかが分からない。仕方なく履中は埴生野(羽曳が丘)の山中に身を隠して一夜を過ごした。
翌朝二人は二丈山を越えて大和に入り、朝廷の武器庫である石上神宮に無事たどり着いた。援軍を引き連れ後からおっかけてきた反正に、履中は反乱軍の鎮圧を命じた。だが反乱の首謀者仲皇子は味方の兵に暗殺され、あっけなくこの反乱は収まった。履中は都を浪速の高津から大和の磐余(いわれ 橿原市)に移した。履中が亡くなると弟の反正が即位し、都を再び河内に戻し、今の松原市(柴籬宮)においた。兄の反正が亡くなると允恭は逃げ回ったが、母親磐之媛が無理矢理即位させたと伝わる。都は大和の飛鳥に移った。(磐之媛皇后の御陵と伝わる前方後円墳は奈良市佐紀町にある。)
允恭陵を見た後、駅に引っ返し、国道170号線を南へと歩くと右手に前方後円墳が見えて来る。これは仁徳天皇の母親、仲津媛(なかつひめ)の陵と比定される。つまり仲津媛は応神天皇の后である。墳丘の全長は290メートル。築造年代は応神天皇と同時期か少し前であり、あまりの規模の大きさに、応神天皇先代の仲哀天皇陵ではないかとの説もある。
前にも言ったが、藤井寺駅南側の美しい前方後円墳は仲哀天皇陵と比定されるが、築造年代はずっと後の時代、つまり雄略天皇くらいの時代のものだと、仲哀天皇陵である筈はないと現在は分かってしまっているから、仲津媛陵の被葬者が疑われるのだ。
私は築造年代に照らし、また中から見つかった副葬品(大和巻向政権の継承者なら神功皇后以後の副葬品である武具ではなく、青銅鏡や勾玉だった筈だという観点)によって、藤井寺の大和川に近いところにある津堂城山古墳こそが仲哀陵であると密かに考えている。だから私は藤井寺駅前にある仲哀陵古墳こそ本当の雄略天皇陵なのだと考えている。
仲津媛陵の前を南下し、途中で左折して住宅地の中に入り、道明寺天満宮を参拝する。この辺り、古代は後に菅原氏と名を変える渡来系の土師(はじ)氏の領地だった。 土師氏の祖先は幼い応神天皇を抱いた神功皇后とともに大和の巻向王朝を滅ぼして河内王朝を立てた野見宿禰(のみのすくね)が、その先祖天穂日命を祀る土師神社を創建したのが始まりと伝える。仏教の伝来とともに土師神社は土師寺となった。
それが平安京の時代、藤原氏によって太宰府に左遷させられた菅原道真が、彼の地で悲嘆にくれて死んだ後に藤原氏に祟った(雷神になって藤原四兄弟を全員死に至らしめた)ことで、天神と崇拝されるようになった道真所縁の地に天神社、天満宮が造られ庶民の信仰を集めた。
土師寺はその後、道明寺と名を変える。道真の姉は土師寺の尼だったが、道真太宰府に赴任する時、この地を立ち寄り、姉と別れを惜しんだとの伝えにより、道真とは特に縁がある天満宮となった理由である。
道明寺天満宮から西に戻り、応神天皇陵を参拝する。応神天皇は神功皇后とともに河内王朝の創始者となっているが、その父親は仲哀天皇だとしながらも、わざわざ仲哀天皇が亡くなって10ヶ月以上開けて母親の神功皇后の腹から応神が生まれた、などと日本書紀には書かれている。
暗に応神は正当な三輪巻向王朝の継承者、仲哀の子ではない、と言っているようなものだ。では応神の父親は誰か?という疑問になる。それを後世の人は面白おかしく、神功皇后と一緒に新羅(シルラ)征伐に遠征した野見宿禰なのであろう、と言うときもあった。しかし今日では神功の新羅攻めは高句麗の広開土(クワンゲト)王の記録や新羅の記録を読んだ日本書紀の編者が新羅を攻めた倭人を大和朝廷軍だと思い込んでの創作話であろうと、往時何度も新羅を攻撃した倭軍も、高句麗広開土王によって半島南端に押し戻された倭軍も、皆朝鮮半島南岸に倭(ウエ)人(日本人ではない)が建国した伽耶諸国の軍隊だと考えるようになったのだ。倭(ウエ)人は日本の北九州にも都市国家を創った。彼らの子孫が西日本の最初の統一王朝を築いたやもしれぬ。それ故にその国を倭国と呼ぶことになったのだろう。
私はひとつ面白いと思うのは、高句麗に広開土王が出る前の朝鮮半島は百済(ペクチエ)の近肖古(クムチョゴ)王が南下し、馬韓(マハン)に侵入し、百済の領土を最大にした時期があるが、彼の一生を描いた韓国歴史ドラマがあって、彼の第一王子が第二王子との王位継承争いを嫌がって、倭国の王族の姫に導かれ、倭国に亡命したという話が出てきたのだ。
百済の近肖古王の第一王子が神功皇后と出会って、応神が生まれた?などと私は想像を膨らますことがある。勿論何の根拠もない。ただ時間的な整合性は、それでぴったりなのだ。しかも神功応神母子が打ち立てる河内王朝は三輪巻向王朝とは違って、百済・高句麗の騎馬民族文化色の濃いものになったことの説明にはなるかもしれない。古墳の副葬品は鏡や勾玉から、武具が中心になる時代へと移り、武具の中には馬用のものが多数副葬されていることはご承知だと思う。
応神天皇陵の西側を堀にそって南へと歩くと途中で西から竹内街道が合流してくる。それを道沿いに進むと左手には応神陵が続き、右手には少し小ぶりの前方後円墳が二つ続く。応神天皇に殉死した者の陪塚であろうか。やがて白鳥北の交差点で竹内街道は東高野街道と合流し、次の白鳥の交差点で竹内街道は左折して古市駅の踏切を渡り、石川の渡河点に向かう。
私たちはそこで古市駅に行く前に白鳥という地名の由来でもある、ヤマトタケルの命(みこと)の御陵を参拝する。崇神天皇の孫、景行天皇には3人の皇子がいたが、真ん中のヤマトタケルが、天皇の言うことを聞かないからとぐうたらな兄を乱暴にも殺害してしまった。天皇はヤマトタケルが怖くなり、タケルを日本各地に朝廷に抗う輩を征伐に行かせた。ヤマトタケルは日本全国の朝廷に刃向かう輩を征伐したが、帰国の途上、伊吹山の麓で亡くなった。その魂が白鳥となって河内に戻ったという伝説から、大鳥神社が創建され、この羽曳野市白鳥(しらとり)にタケルの陵が造られたとの伝説となった。
さてヤマトタケルには一人息子がいた。この皇子様を親代わりに育てたのが、景行天皇の末の皇子から父景行の継承者となった成務天皇だった。成務天皇が育てたヤマトタケル
の皇子が仲哀天皇である。
仲哀の子の応神が母の神功とともに、成務天皇が遺した二人の皇子を倒して、河内王朝を打ち立てた。しかし応神が仲哀の子では無く、百済あるいは新羅の王族の子ならば、この
王位継承を巡る戦争は王朝交替の戦争だったことになるのだが。
いよいよ私たちは古市駅の踏切を渡り、竹内街道を石川の渡河点へと進む。民家の中を東へと進むが、街道の雰囲気が残る場所でもある。
石川に出たらお昼のお弁当ですよ、と言うと、一挙に足並みも軽くなる。
石川の堤に出た私たちはそこで各自が持ってきたお弁当を。
この後は橋を渡って竹内街道を駒ヶ谷へと進みます。
(中編に続く)