第六回 南海堺駅から南海堺東駅まで 後編
第六回 南海堺駅から南海堺東駅まで 後編
さて南宗寺は、もう一つ、急死した徳川家康を密かに埋葬した場所を示す、小さな石碑があることでも有名だ。先の大戦まで石碑の近くには東照宮が建っていた。現在はその跡に立派な顕彰碑が建つ。その世話人に松下幸之助の名もある。
南宗寺に伝わる話では、1615年、大坂夏の陣の最中、家康は真田隊の急襲にあって陣を蹂躙(じゅうりん)され、篭(かご)で堺方面へと逃げたが、途中後藤又兵衛に追いつかれ、篭ごと槍で突かれて絶命し、南宗寺に密かに葬られたのだと。
公式の日本史では、家康はその1年後、駿府で天ぷらの油に当たって亡くなったことになっている。それが国民の知る話である。もしも南宗寺の伝承が事実なら、天ぷら油に当たった、否、毒の入った天ぷらを食わされたのは用済みの影武者だったことになる。
にわかに信じられる話ではない。ただ1623年、わざわざ江戸から将軍秀忠と嫡男家光が揃って南宗寺に参拝していること、また寺には葵の御紋が入った瓦の使用が許されていることなど、逆に伝承を裏付けるものばかりである。
ただ調べて見ると、「日光東照宮宝物館」に保存される、最後に家康を乗せた篭の天井には、鉄砲の弾の貫通した穴が二つ開いている。まるでケネデイー大統領の様に、家康が逃げる通る道を知った者に、篭が見下ろせる処から待ち伏せされ、鉄砲で狙撃されたことになるだろう。家康を襲撃したのは槍の後藤又兵衛ではなく、腕の立つ狙撃チームのようだ。
だが何故、家康の死を1年も秘匿したのか。二代将軍秀忠が家康から政権を託されて久しく、大坂の陣の戦勝後なら、家康の死を公表しようが、揺らぐ天下ではなかった筈である。
ここで事業家でもある私は、権力の継承、企業なら経営権継承の難しさがこれ程ミステリアスな事件の根底にあるのでは、と考える。企業の例で言うなら、トップは自分の業績を誰よりも評価し、忠実に方針を踏襲する者に経営権を継承したいと願うのは人情である。
とは言うものの、企業の未来を心配するなら、寧ろ先代を乗り越え、先代に勝る指導力を発揮して、企業を統率できる人物にこそ継承すべきなのである。
またそういう有能な二代目なら、どんなに先代の偉業に敬服し、忠実に方針を踏襲しようと思っても、自分一人で全責任を負ってやって行こうとする時に、先代がいろいろ口を出して来るなら当惑するだけだろう。企業の行く末を思えば、心を鬼にして先代を排除しなければならないときがあるかもしれない。
家康は息子の秀忠に政治を任せながら、三代目後継にも口を出した。軍事のことは俺に任せろと大坂冬の陣に参陣した。戦は始まって間もなく和議になったが、それすら将軍家の意思だったのかどうか。将軍秀忠、天下安寧の為に、豊臣家は根絶やしにすべし、と心を鬼にし、実の娘も孫も失うことは覚悟の上での開戦だった筈である。
ところが終戦の暁に、もしも豊臣一族の助命嘆願が上がるなら、彼らと共に長く生きてきた父家康はどう対処するのか、家康の意見を無視は出来ない将軍家には不安だっただろう。しかも戦後の政治にも、勝利に貢献した家康が口を出さない保証もなかった。
まさかとは思うが、もしかしたら将軍家は、家康の陣の在処や逃げ道を、大坂方に教えたりはしなかっただろうか。徳川幕府の安寧の為、泣く泣くであっても、そんなことをしたなら、後ろめたさで家中にも公言できないのは当然だ。それが父家康の死を暫く秘匿した理由でなければ良いのだが。
南宗寺の隣の大安寺の境内を外から眺めた。この場所は利休と同じ時代に日本と呂宋(るそん フイリッピン)間の貿易で巨万の富を得た納屋助左衛門の屋敷跡だと言う。助左衛門は秀吉からの弾圧を受けそうになった時、私財を寺に寄進して、呂宋に亡命した。
それから阪神高速の下を北へ北へと高野線堺東駅付近まで行き、その裏にある反正天皇陵を見て堺東駅に戻った。お昼を少し回ったところだ。次回は百舌鳥古墳群を回る予定なので反正天皇についてはその時に触れよう。