第十四回 土師ノ里駅から上ノ太子駅まで 中編

第十四回 土師ノ里駅から上ノ太子駅へ 中編

平成28年5月5日、私たちは近鉄南大阪線古市駅から住宅地の中、竹内街道を東に進み、石川の堤でお昼の弁当を食った後、臥竜橋を石川の右岸へと渡り、竹内街道を南へと歩いた。
この大きな川を古代の昔はどうやって渡ったのかは分からない。水かさの少ない日を選んで河床を膝まで水に浸かって歩いたのかもしれない。
そう言えば、東高野街道もこの近くで大和川を渡ったのだ。
臥竜橋から川の上流を眺めると左岸側の川原に羽曳野市立石川スポーツグランドが拡がる。長い橋を渡り終え、対岸の堤に出ると広い舗装道路を左に中小の工場群を見ながら右に進む。

 

私たちは今国道166号線(竹内街道)を歩いている。
150メートルほど行くと国道166号(竹内街道)は工場群の中に吸い込まれるように石川の堰堤から離れて斜め左へと入って行く。
駒ヶ谷駅に行く途中で、竹内街道を示す道標があり、そこで暫く休憩をとった。
次第に近鉄南大阪線が右から近づき、その向こうには石川河川公園が見えるが、今日は祝日だからか、多数の地域住民が集まり、スポーツイベントをやっていた。

駒ヶ谷駅に着くと国道166号(竹内街道)を離れ、踏切を渡って南西方向に細い道を歩き大黒寺に向かった。大黒寺、曹洞宗の禅寺で、大黒天を祀る寺なのだが、だいこく寺と読んで差し支えないけれども、「おぐろでら」と読む人も多い。この辺りの地名が羽曳野市大黒と書いてハビキノシオグロと読むからだ。理由は知らない。
境内に七福神の石像が並ぶ。日本の神社に祀られる大国主命は神であり、仏教の大黒天も天という神様には違いないが、両者は本来全く違う礼拝対象なのだ。

 

 

大黒寺を出て、石川右岸の堤の道を左に進む。高架の南阪奈道をくぐり、600メートルくらい進むとY字に先が分かれるが、石川から離れ、斜め左にとって田畑の中を進むと壷井という集落に出る。その集落の中の小高い丘陵に上って壷井八幡宮に参拝する。
今は壷井の地名を知るものは少ないが、ここは後に鎌倉幕府を開いた源頼朝や、室町幕府の将軍となった足利尊氏、それに生涯抗った新田義貞などを輩出した平安期の河内源氏の本拠地なのだ。

 

八幡神というのは応神天皇のこと。平安時代、清和源氏の子孫の武家たちが京の朝廷から河内の応神天皇陵の守護を命じられたことで壺井が源氏の本拠地となった。清和天皇の孫に当たる経基が清和源氏の祖であり、経基の孫、頼信が河内源氏の祖となる。河内源氏をして清和源氏の本流であるかのように源氏の名を轟かせたのは、奥州の抵抗勢力、安倍氏懲罰の戦い、前九年の役で活躍する頼信の子、頼義と、同じく後三年の役で活躍する孫の義家である。


壷井八幡の石段を下り、集落の中をまっすぐ南へと進むと通法寺と言われる地に出る。ここは昔、河内源氏の菩提寺、通法寺があった処だ。今は棲む人は少なく、木立が生い茂り、殆どが林間だが、まず見つけられるのは河内源氏の二代目、源頼義の墓である。
1051年、奥州の安倍氏が朝廷への貢租を怠ったので陸奥守藤原登任や平繁成らが数千の兵を率いて安倍頼良の懲罰を試みたが、逆に破れて更迭され、後任の陸奥守には河内源氏の源頼義が受けることになった。(前九年の役の始まり)
翌年天皇が祖母の病気平癒祈願を行い、大赦が行われた時に、奥州の安倍頼良は無罪放免となった。そこで頼良は源頼義と名が同音では恐れ多いと頼時と改名した。源頼義は鎮守府将軍に昇級した。
1056年、頼義が陸奥守の任期が終わって多賀城に帰還するとき、頼義配下が安倍氏から夜討ちをかけられたの報を受け、安倍頼時の息子、貞任(さだとう)の出頭を命じたが、拒否され、再び安倍氏との戦争となった。頼義は1057年安倍頼時を敗死させた。頼時の後は貞任が継いだ。

1057年、頼義、義家親子らの国府軍は安倍貞任と戦戈を交えたが、今度は安倍軍に大敗し、僅か七騎で逃げなければならなかった。

1062年、源頼義が出羽国の清原光頼を味方に付けてからは戦況が一変し、安倍氏は滅亡した。

頼義の墓から南にある小高い丘の上に登るとその頂上に更に小高く盛った土の山があって、それが頼義と奥州で行動を共にした息子の八幡太郎義家の墓である。実は昔、私は此処を一度訪れたことがある。その時は手入れが悪く、義家の墓石はすっかり樹木に覆われ、まるで成仏できない人の塚であるかの如く鬼気迫る感があった。
安倍氏が滅んだ後、奥州では清原氏の家内の内紛から戦乱となり、再び源義家が活躍することになる。(後三年の役)

後三年の役の後、この戦いに勝利した清原清衡が藤原姓を名乗るようになって奥州藤原氏が誕生するのだ。
さて、前九年、後三年と長期に渡って奥州にて朝廷の為に働いた源義家にはめぼしき恩賞は殆ど無かった。為に奥州にまでついてきてくれた部下たちには、義家は私財を投げ打って報いたそうである。そのことが後に源氏の棟梁の周りに板東武者が集まる世に、板東に武家政権が誕生する世へと移って行くのである。

義家の墓がある丘の上の南側の端に河内源氏の祖である源頼信の墓がある。
この後は聖徳太子が眠る叡福寺に向かう。

(後編に続く)