第十一回 近鉄枚岡駅から東生駒駅まで(後編)

第十一回 近鉄枚岡駅から東生駒駅まで(後編)

 6月13日朝の10時過ぎ、友人らと共に雨空の下、近鉄枚岡駅から暗越奈良街道を生駒連山稜線上にある暗峠を目指して登っていた。観音寺を出発する時には雨が止んだ。そこから更に急坂になると、再び足のふくらはぎが痛み出す。200メートル程歩くと赤い鳥居があって、中に「お玉天神」」「お初天神」」「玉市大神」「熊鷹大神」「秋葉明神」などと彫られた大小十個ほどの石碑が押しくら饅頭をするかのように並んでいる。その謂われも、なぜこの地に集められたのかも伝わってはいない。このような礼拝すべき石が道端に並んでいたのを想像しても、生駒山は昔の人々には霊験あらたかな山であったのだ。

街道の勾配は更にきつくなる。冬期は車でここを登り降りするのは不可能だ、と私たちは口々に同じ事を言いながら納得するのだった。見ている前で、登る車と降りてくる車とが対向したのだが、登る車が左に寄せて一旦停車し、降りる車をやり過ごした。その後が大変だ。停車していた車は発進しようとブレーキを踏んでいた足をアクセルに踏み替えたが、急勾配の為、思い切りタイヤを空回りさせての発進となった。


 600メートルも歩けば、勾配も緩くなり、木立も少なくなって、峠への接近を予感させる。そこに現れるのが、阿弥陀如来の座像を上半分に、下半分に南無阿弥陀仏の名号を彫った石の笠塔婆を祀った祠である。祠の前にはチョロチョロと湧き水が出ている。「弘法の水」と呼ばれ、十年くらい前まで多くの人が水筒を持って、勢いよく溢れ出る清水を聖なるご神水と思って汲みに登って来ていた。だが今は「水質検査の結果、生水は飲まないようにしましょう」と書いてある。第二阪奈道路のトンネル工事のお蔭で水量が減って水質も変わってしまったようだ。


暗峠、奇妙な名である。旧い記録によれば、この辺りは嘗て小掠山(おぐらやま)とか、掠峯(くらがみね)と言われ、故に峠も最初は掠峯(くらがね)峠と呼んだり、掠ヶ根(くらがね)峠と表記したりした。だがなにしろ昔は杉木立が鬱蒼として茂って昼間も暗く、追いはぎや盗賊が出やすい気味悪い峠だったもので、何時しか誰からともなく「暗がり峠」と呼びようになったのだ、と伝えられている。また落語には、馬があまりの急坂に驚いて鞍がひっくり返るので「鞍返り峠」になった、とする説まで登場するのだそうだ。今は杉が伐採され、集落も出来て、その名とは逆の明るい峠になっている。


峠に近づくと民家の集落が目につく。ところが今まで歩いて来た広い道は峠の手前で右にカーブし、信貴山の方に向きを変えるのだ。暗峠に行きたい者ならここでびっくりするところだが、峠に行くにはカーブする広い道から、来た方向にまっすぐの左への車一台がやっと通れる程の細い別れ道に入り、民家の敷地の中を行くかのような狭い坂道を登って行けば、やがて道幅は再び2間ほどに広くなり、有名な石畳の古道となる。両側に旧い民家が並び、峠に登り切る迄は昔の街道の情緒溢れる風景を楽しむことができるかもしれない。道の左手に人の背丈ほどの大きな石に「暗峠」と掘られている。

しかし峠に立つとすぐ目に入るのは、その目の前を左右(南北方向)に走る自動車専用道路「信貴生駒スカイライン」だ。その白い金属製のガードレールと、その下のコンクリート製の構築物が、奈良県側の風景を台無しにしている。歴史的な文化遺産である奈良街道は、そこでは跡形無く壊されてしまい、往来する人や車はコンクリート製の道路の下に掘られた地下トンネルを潜り行くことになる。ユネスコ文化遺産が世に騒がれる今日なら、奈良街道とスカイライン有料道路との交差方法もきっと変わったに違いない。


時刻はまだ10時半なのだが、峠には茶店「すえひろ」が営業していたので、そこで昼食休憩することにした。昼食と言っても、私たちは3人とも軽食の弁当を背中のザックに携帯していた。万が一峠の茶店が臨時休業していた場合の用意だった。茶店の奥さんは親切な人で、訳を言うと、珈琲か何か注文してくれたら、店の中の食卓に座って弁当を食べてくれても良いと言ってくれた。私たちは喜んで店の外にある食卓を使わせてもらった。そこへ数組のハイカーたちがやってきて、店の中は一度に賑やかになった。


茶店には15分程いて、スカイラインのトンネルを潜って奈良県側に進むと、道は一挙に広くなる。そして先ず目にはいるのは、風のビューカフエ「友遊由(ゆうゆうゆう)」と名付けられた茶店である。烏骨鶏の卵を使った玉子丼などの名物食べ物もあるようだが、珈琲に抹茶やアイスクリームなどの喫茶が中心のようだ。私たちは食事をしたばかりなので、そこには寄らず先に進んだ。目の前には西畑の棚田が拡がる。実に日本的な山村風景だ。この美しい里山の風景を残すため、ボランテイアによる保全活動が熱心に行われているようだ。平成19年には「美しい日本の歴史的風土100選」に、宝山寺などとともに選出されている。

峠の集落や西畑の棚田には自然の湧き水を生活水にしているのかと思いきや、棚田の辺りの街道の横に西畑加圧配水所と書かれた建物があったのでここから水をポンプで汲み上げていることに気付いた。棚田を右手に見ながら下って行くと左手道端に比較的新しい四体の石仏がある。またしばらく下ると古い時代からの小さな一体の石仏があった。造られた時代は違っても、どの石仏も街道を行く人々にとっては、欠くことができない信仰の対象であっただろう。


 更に街道を下って行くと左手に万葉歌碑が建っていた。大田部三成の作だが、「なにわと(「と」は津(港)の意味か?)を漕ぎ出でて見れば 神さぶる 生駒高嶺に 雲ぞたなびく」と万葉時代の漢字を仮名代わりに用いた原文通りの表記法で彫られている。その歌碑の手前の少し高い処に一軒の農家の建物をまるごと利用したような風情がある茶店がある。「手打ちうどん 風舞」である。棚田を渡る風を感じながら、ゆっくり手打ちうどんが食べられるお店である。お薦めは「くらがり地鶏なんば」らしい。お昼を食べたばかりではあったが、ここのうどんはどうしても味わいたく、私はきつねうどんをいただいた。


街道は間もなく近鉄生駒線の南生駒駅へと進のだが、私たちは石仏寺の前を通り過ぎると、西池の前で街道から左に離れ、青山台の住宅地の中を北へ北へと突き抜け、有里町の集落を通り抜けて竹林寺の境内に入った。その裏は国道168号線から第二阪奈道に入る入口の壱分ランプである。ここは行基菩薩開基四十九院のひとつで、奈良時代に架橋や治水工事、溜め池造りに尽力し、後に東大寺大仏の造立にも貢献した僧、行基(668~749)の小庵が後に寺院となり、墓所もある。行基の墓は国の指定跡である。


私たちは更に北に進み、往馬(いこま)大社の社殿に登る石段の下にやってきた。古代、生駒山を神体山として祀ったのを起源とし、生駒谷十七郷の氏神として鎮座している。最古の記録では、「総国風土記」雄略天皇三年条に「伊古麻都比古(いこまつひこ)神社」として登場しているとのことだ。神殿は拝殿の奥に七棟が並ぶ。祀られているのは、イコマツヒコの神、イコマツヒメの神、オキナガタラシ媛命(神宮皇后)、タラシナカツヒコ命(仲哀天皇)、ホムタワケ命(応神天皇)、葛城高額媛命(神功皇后母君)、オキナガスクネ王命(神宮皇后父君)の七神である。

境内には溝桜(うわみずさくら)の古木が植えられていて、そこに「この桜の木は天皇陛下の大嘗祭(即位の儀式)に関わる祭田点占(さいでんてんてい)の儀に使用される御神木であって、平成の大嘗祭にも当社よりこの上溝桜を献上いたしました。」と説明が付けられている。四月には白い房状の小さい花を咲かせるようだ。往馬大社と言えば、10月の火祭りが有名で、この時ばかりは日頃静かな境内も地元の人々でごった返すのである。
私たちは最早奈良街道から大きく北に外れてしまったので、そのまま近鉄の東生駒駅に向かって歩いた。途中で10分足らずだが夕立が降って来た。駅に着いたのは午後2時頃だった。