第四回 南海堺駅から南海堺東駅まで 前編
第四回 南海堺駅から南海堺東駅まで 前編
6月4日木曜日、会社には半休を届け、南海難波駅で朝8時半に待ち合わせた友人O氏と急行で堺駅に向かった。堺駅から東に向かう大通りは大小路シンボルロードと呼ばれ、それこそが竹内街道なのだが、厳密に言うなら、阪堺線が走る大道筋(紀州街道)の交差点が、紀州街道と分かれ、東の南大和に向かう竹内街道の出発点なのだろう。画像は堺駅から東に伸びる大小路シンボルロード。
前回最後に立ち寄った利休屋敷跡のすぐ近く、フエニックス通りの南歩道に面して、市営の「さかい利晶の杜」という全面ガラス張りの巨大な建物がある。前回は立ち寄れなかったが、今回はここからじっくり見ることにする。
利晶の杜とは言うまでもなく、堺が輩出した有名な二人の文化人、千利休と与謝野晶子の足取りや業績を展示する博物館であることを示している。一階は「千利休茶の湯館」であって抹茶がいただけるコーナーもある。
戦国時代の堺(SACAY)は貿易が盛んな国際都市で、豪商が統治する自治都市だった。
それ故堺では戦国から桃山期にかけて、唐物(中国明の文化)、高麗物(李氏朝鮮の文化)、和物の三文化を含む「和漢兼帯」文化の醸成を見ることになる。舶来の茶器等を愛でる「侘茶」は正にその象徴と言えるだろう。茶の湯(侘茶)は堺の武野紹鷗(じょうおう)が中興し、千利休が大成した後に秀吉による弾圧を受けるが、それは続編で触れよう。
二階は「与謝野晶子記念館」だ。又二階から隣の利休屋敷跡が覗けるようになっている。
1878年、与謝野晶子(鳳志よう)は堺の和菓子屋「駿河屋」二代目鳳宗七の3女として生まれ、堺女学校(府立泉陽高校)を卒業。やがて晶子は与謝野寛(鉄幹)が創刊した文芸雑誌「明星」に作品を発表するようになり、その縁で寛に恋する晶子は、1901年上京し、寛と結婚。経済苦の中、12人の子供の母となった。(内一人は生後2日で死去) それは晶子と寛の夫婦愛がいかに長く続いたかの証でもある。
昔吉永小百合さんが晶子を演じる映画があったが、幾多の女に生ませた11名もの子供がいる女たらしの物書き、鉄幹の家に、嫁と言うより家政婦として、好き好んで転がり込むシーンがあったが、それは虚構で、真実は総て晶子が産んだ子である。
結婚の経緯でも、二人の間に生まれた子供の数でも、晶子の情熱の深さを計ることができるが、更に驚くことは、1912年、ヨーロッパに旅立った夫を追いかけるように、晶子は7人の子供達を夫の妹に預け、シベリア鉄道経由で2週間がかりでパリに到着し、夫と再会を果たしていることだ。晶子は夫寛とフランス、イギリス、ドイツ、ベルギーを旅するが、自身の妊娠を知るなり、一人慌てて帰国している。
師弟であり、同志であり、夫婦でもあった寛と晶子は、互いの才能を認め合い、終生変わることがない愛情と尊敬を持ち続け、深い信頼の絆で結ばれていたのだ。
1933年、夫寛(鉄幹)肺炎で死去。62歳。その7年後、1942年、晶子死去。63歳。二人の魂は多磨霊園にて、今も並んで永遠の憩いに安らぐ。
与謝野鉄幹の墓碑の歌
知りがたき事も おほかた知りつくし
今なにを見る 大空を見る
与謝野晶子の墓碑の歌
今日もまた すぎし昔となりたらば
並びて寝(い)ねん 西のむさし野
(次回は、徳川幕府の全国支配を盤石にする為に、大坂の陣を前にして、二代将軍秀忠が先ず倒すべきものとは何だったのか、野瀬泰良流による、あっと驚く歴史の深読み術を披露いたします。さて、どれだけ皆様の合点!が得られるでしょうか。)